おーじの覚書

忘れちまった事、忘れらんねぇ事

オタクの話②

先日、オタクの話を書いた。「涼宮ハルヒ」アニメ放送開始から10周年という節目に、彼女が私にとって一体何者であったのか、を今一度自らに問うという稚拙ながらも「いつか書かなければならなかった」系の非常に有意義な作業となった。

今回はその続きといった位置づけである。オタクの話は面倒で長いのだ。

 

さて、「涼宮ハルヒ」の話をしてしまったからにはもう後戻りはできないということだ。

こう成り果てては最後、もう一人絶対に避けては通れない人物がいる。

 

文学少女、眼鏡、無口

全ての萌え要素の…

止めておこう。ひねくれたオタクは簡単には流行に乗らないのだ。

彼女を説明するに足る言葉は昔からこれ一つと決まっている。

 

この銀河を統括する情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース

この仰々しい肩書こそ、長門有希という少女がその小さな身体に背負った大きな使命だった。

 

客観的に見て、長門有希というキャラクターの持つキャッチーさは凄まじい。

例えるならばHIT IN THE USAのサビくらいキャッチーだろうか。

先も述べたが、正直「記号的」ともいえる要素をこれでもかと詰め込んでいる。

眼鏡だし、文芸部だし、喋らないし、紫髪だし、宇宙人だし。

2017年現在で登場していたら埋もれていたのではないかと少し心配になるほどだ。

 

だが、私は長門有希という存在に本当に感謝している。

なぜなら彼女というキャラクターの存在が圧倒的に希薄であるからだ。

想像してほしい。

私は文芸部員で、部員は私と長門の二人だけだ。

二人は別々のクラスで、だいたい私の方が部室に来るのが遅い。

部室の前に立ち、ガチャリと扉を開ける。部屋の隅、パイプ椅子に腰かける文学少女

狭いはずの部室がやけに広く見える。

窓から差し込む夕日に照らされたオレンジがかった彼女の双眸がチラッとだけ私を見やる。しかしてすぐに、その視線は手元の本へと戻されるのだ。

 

「よっ」

いつも通りのぶっきらぼうな私の挨拶。例のごとく返事はない。

だが、ここで私の心を満たす感情はため息をともなう「安堵」だ。

部室に来て、ドアを開け、視界に長門を入れて、いつも通りの無表情を確かめる。確認作業。

毎日やっていることだ。ルーティンワークと言っていい。

しかし、実は私はこの淡々とした日々に言い表せない恐怖を抱いているのだ。

こうした毎日をこなしていると、いつか突然前触れもなく、ドアを開けたら長門はそこにおらず、空っぽの部室。次の日も、その次の日も彼女は現れずに私の前から永久に消えてしまう。そんな日が来る気がする、という無形の恐怖に苛まれている。

透き通るような現実感の無さ。そこにあり続けていることすら実は奇跡なのではないかと思わせる彼女の圧倒的な希薄さがそれを感じさせるのだ。

だから、ドアノブを握って回し開ける瞬間、実は毎回時が止まるかのような妙な緊張感を抱いているし、その結果変わらずそこにいる彼女の存在を確認できた時、やっと私は本当に安心した笑顔で彼女に声をかけることができるのだった。

よかった、今日もこの顔を見ることができた。無形の恐怖は杞憂だったなと、この瞬間だけは強くそう感じることができる。

 

一度、こうしてドアを開けた際に彼女が本当にいなかったことがある。

呼吸が止まりそうだった。冷たい汗が全身から噴き出した。

どうしよう、探すか?いやどこを探すというのか。

そういえば私は彼女の何も知らないではないか。何が好きなのかも、何が嫌いなのかも。

私は、毎日共に過ごした彼女の何一つを未だに知らないという事実に打ちひしがれる。

絶望がゆっくりと目の前を閉ざしていった。

 

しかし

 

「掃除当番」

 

か細い声を紡いで、無表情の少女が平然と、静かに、部室に入ってきた。

 

「あっ…ああ!なるほどなるほど!!」

素っ頓狂な声を上げてごまかす私は内心でとてつもなく安堵していたのを記憶している。

 

 

ここまでこうして彼女の希薄さについて話してきたが、最も恐ろしいのはこの段落が「想像してみて欲しい」から始まっていることだろう。いささか想像が長くなってしまったようだ。

 

つまり、何が言いたいか。

もう賢明な皆様ならば分かっているとは思うが、

 

長門は間違いなく儚げな美少女である。

そう、美少女である。重要なことだ。

儚げな美少女トーナメント「HAVO(ハボ)」でウィナーズから上がってきた塚本八雲と決勝を争うのは間違いなくルーザーズから這い上がって来た不撓不屈の長門有希であり、その決勝を見守る私はとても満足げな顔で彼女を讃えていることは想像に難くない。

 

 

私の理想の儚げな美少女のほとんど「アーキタイプ」といっていい彼女は、やはり私の人生とって非常に大切な存在であり、感謝してもしきれないのであった。

 

本当は、今回は長門有希の話は足がかり程度として、その「中の人」の話を長文で語ろうと思っていたのだが、思ったよりも長門の話だけでスペースを使いすぎてしまった。

よってこの話はもう少しだけ、「オタクの話③」へと続いていく。

「と思うじゃん?」より腹の立つ切り返しはない

タイトル通りである。

 

「と思うじゃん?」である。

 

「あの○○って○○だからさー」

「と思うじゃん?」

 である。

決して言ったのが悪い人でなくとも、この切り返し方をされた一点においては、言われた瞬間アゴに掌底を入れてやりたい。掌底を入れて浮いたアゴに零距離からショットガンをぶち当ててやりたい。

失礼。それぐらい腹が立つという話だ。

 

なぜ会話の中でナチュラルに人を煽ってくるのだろうか。戦闘民族か何かなのか。そんなに戦争がしたいのだろうか。

 

「あの○○って○○だからさー」

「あ、でもそれって○○の時もあるよ~」

「マジで?」

 では駄目なのだろうか。

 私はもう「と思うじゃん?」アレルギーなのでこのワードが出た瞬間に話を聞く気がなくなる。

「と思うじゃん?」に導かれて彼の口から発せられる、私の知らなかったであろう新情報は一つも頭に入ってこない。

大抵これを言っている本人は若干したり顔なのもキツイ。

そこには「お前まだそこ?」というニュアンスが多分に含まれている。

 

「と思うじゃん?(ニヤリ)」

 

 ムッキィィィィィィィイ

 

という感じで猿になってしまう。人間らしい会話がしたくても、そこに残るのは腹の立つしたり顔と言語を失った猿である。

 

気にならない人は本当に気にならないだろうが、私は本当に苦手だ。

少なくとも、話を聞いてほしいのだったらこういったいらぬジャブを打ってこないで欲しい。

 

「と思うじゃん?」

私の思考の何を見透かしているというのか。

「そう言うと思ってました~」とでも言いたげである。

そしてこれを深く考えずに会話の橋渡し感覚で使っている人が多いのがまた具合が悪い。

私の前ではその橋は向こう岸まで渡されていない。完全に途中で折れてしまっているのだ。

 

というわけで私は日々、これは「よくない方の日本語」だなぁと思いながら過ごしている。

どちらかと言えば悪いのは使いどころか。

是非、世界を救う時にでも使ってほしい。

 

「もう終わりだ...」

「諦めよう...」

「私たちここで死ぬのね...」

 

「と思うじゃん?」

私が影響を受けた一文

筆を執ろうとする時。

よいネタはないかと記憶の海を泳ぐ時。

どうしても学生の頃の話題が多くなってしまう。

当然だ。この世に生を受けてからこちら、ほとんどの時間は学生として過ごしていたのだから。

学生でなかったのはオムツをしていた時とオムツが取れてからの数年と去年から今日までの僅かな時間だろうか。

よって、これからも何かと「小学生の時に」だとか「高校の部活で」といった切り口で数年前の物語が幕を開けることは少なくないと思うが、精一杯、当時の青臭さとノスタルジーを筆に載せるつもりで努力するので、どうか今は平にご容赦いただきたい。

現在、学生の方はこのブログの存在自体を反面教師にして「有効な時間の使い方」などを今一度考えてみるのも面白いかもしれない。まだ間に合う。

また、私もいつかはステイサムばりの人生経験とハードボイルドを積み重ねてそれをブログにできたらと思っているので、その時を気長に待っていて欲しい。

前置きが長くなった。

何が言いたいかといえばつまりだ。

今回も中学生の時の話をするから先に謝っておくか、とそういうわけなのである。

 

 

こうして今この時ように、文字を書くことは好きだ。

自分にインプットされた話題、知識、内面、その引き出しとどこまで向かい合えるか、そしてそれをアウトプットできるか。

静かに、ただ静かにそれが心地良い、そして面白い。

 だが、ここで少し立ち止まって考え込んでみた。

はて、こうして自然と文字にアウトプットできるようになった下地、バックボーンはどこだっただろうか。自分の文の「ふるさと」はどこにあっただろうか。

小説?

恥ずかしながら、影響を受けたと積極的に言えるような作品、作者には思い至らない。

これについては自らの浅学を呪うばかりだが、ないものはない。正直言って辛い。

ではゲームと漫画か?

これは大いにありそうだが、きっと様々な作品が混然一体となって私の中に渦巻いている為、その中心などを探し求めるのはなかなかに重労働だろう。それはまた別の機会に。

 

こうして自分の文章の在り処を、どこかどこかと探しているうちに、一つの記憶の扉の前へと辿り着いた。

扉には「ちゅうがくにねんせい」という表札が掲げられていた。

そうだったのだ。私は中学二年生の時、人生の中で一度だけ明確に、他人の文章、その一文に雷に打たれたような衝撃を受けたことがあったのだった。

それを思い出した。思い出してしまった。

先ほど、影響を受けたのは小説ではないと言ったが、ある意味それは小説だった。

ただ著者が極めて特殊だった。

同級生の、同じクラスの女子だったのだ。

つまり、当時の自分と同じ中学二年生の女子の文章というわけである。

今までの人生で、影響を受けた文豪の名も上げられぬ私が、唯一記憶に残るほど衝撃を受けた文章を繰り出したのが14才のいたいけな少女だったとは。

圧倒的な青春物語の始まりを感じざるをえない。

エイトビートに乗った、きらびやかなテレキャスターの音色すら聴こえる。

エンディングはピアノが良いか。

 

だがやはりというか、現実はそう甘くはないのだ。

少なくとも、その少女は「いたいけ」ではなかったという事だけは今ならばハッキリとわかる。

その音色はテレキャスターというよりはトガり方としてはエクスプローラーだったし(形状が)ピアノもひたすらに不協和音を刻んでいただろう。

 

本題に入る。

私には同い年の従姉妹がいた。

仲が良く、家が近かったのもあり、学校帰りには私の家でよく64やプレステをしていた。

その従姉妹が今はとんでもなく豹変し、アパレルモンスターと化して地元を荒らしまわっているのはまた別のお話だ。

 

そんな従姉妹がある日、こんな話をしていた。

「今、女子の間でルーズリーフに書いた小説を交換するのがマジで激アツ」

もうこの時点で黒歴史の扉の開く音、または自らの古傷が開く音が聞こえた方は構わずにバックボタンを押してこのページを閉じて頂きたい。

 

自分はその当時、ただ白球を追い駆けるだけの純粋なジャガイモだった為、

それを聞いた時は「めっちゃ大人〜。進んでんなぁ」と思った。

俺たちが遊戯王でカオスエンペラードラゴン‐終焉の使者‐をメンコの如く叩きつけてはキレている間に、いつの間にか女子は物書きなどを嗜んで大人の階段を昇ってしまっていたのだと思うと悔しかった。

 

「それで、これが今日もらった小説なんだけどね」

四つ折りのルーズリーフをバッグから取り出す彼女の横顔は、いつもより少しだけ色っぽく見えた。

「はい」

受け取ったルーズリーフを開き、私はその文字列を読む。

 

結論から言う。

こいつらは進みすぎていた。大人の階段三段飛ばしだった。

今でこそ、この世界の色々な物に触れ、矮小な身なれども多少の見聞は広めた。大抵の作風に理解も及ぶ。

だが、その時の自分はそうではない。

知識の欠片もない全くの無垢である。開闢の使者強い!

その文章を端的に言って何と括るのかすら知っていたか怪しい。

果たして、Bで始まりLで終わるものだと解っていたのだろうか。もはや遠い彼方の記憶である。

そんな少年にだ、突如として

 

「その熱い吐息が、サスケの二度目の白濁を誘う」

 

という文章を叩きつけて何が産まれるというのだろうか。

決まっている。トラウマだ。やけに詩的だし隠喩なのがまた辛い。

結果として、これが未だに現時点で私が人生で最も「衝撃」を受けた「一文」となってしまった。

冷静に分析して今読んでみてもこの一文は普通にまあまあウマいと思えるのが腹立たしい。

なんなら結構好きだ

現に他の文はあまり覚えていないがこのたった一言の地の文だけは一字と違わず覚えているのがどれだけ衝撃が強かったのかという証明である。

この出来事が世界の広さを知るきっかけとなって、今こうして多様な物事に興味を持ち、文章にすることのバックボーンとなっていると思って、この話は美談としたい。させてくれ。

 

皆さんも時折立ち止まって自分のバックボーンとは何だったかなどと過去と向き合って、そして悶絶していただければこれ幸いである。

駅のトイレの話

駅での話である。

 気にしている方がどれ程いるのかは定かではないが、今の時代、大きな駅のトイレにはだいたいその場所を知らせる音声アナウンスが配備されている。

これはもちろん、目の不自由な人に向けられたものだ。

それ以外の人が聞いてもほぼ意味はないと言っていい。

 

だが、このブログは時としてほぼ意味のないものに無理やり意味を押し付ける暴力的な一面があるのだ。

 

 

 東京~新大阪まで2時間半。長くて短い旅路を終えた私は、新幹線を降り、改札を目指しぼーっと歩いていた。

早く帰りたい、それ以外の行動理念の全てを剥奪された、帰宅に狂う獣である。

 その時だ。

 

「ここにトイレがあります」

 

優しくも無機質な声が、空っぽとなっていた獣のアタマのど真ん中へ、空虚かつ凄絶に響いた。

ただの肉喰らう獣だったものが突如として「思考する」という概念を神から押し付けられた。

「考えることを止めるな」そんな力強さを感じた。

 

「ここにトイレがあります」

 

提示された格好だ。

「しまった」と思った。

完全に後手に回らされた。

 

「ここにトイレがあります」

「そう。あるのだ。トイレが、ここに」

 「ならば、そなたはどうする?」

 

そう言われている気がした。

脳が焼き切れそうだった。

思考が追い付かない。

 

実際には「ここにトイレがあります」としか言われていない。

だからこその恐怖だ。さながらの圧政だ。

 

トイレがあるということだけは、矮小たる貴様に教えてやる。

そこからどうするかは貴様の自由だ、もの言わぬ獣よ。

 

身体の震えが止まらない。あるいはこれは武者震いだろうか。

口の中は砂漠、指先は命令中枢から切り離され、既に感覚を失い始めていた。

 

まぎれもなく、トイレはある。それはもう揺るぎない事実で動かすことはできない。そこまではなんとか飲み込んだ。

しかしだ。私は気づいてしまった。

男子トイレと女子トイレがしっかり1つずつ、青と赤が不気味なほど均等に並んでいるではないか。

トイレ1つすら満足に背負えないこの獣の身に、よもや男女2つのトイレとは。

しかもだ。よく見ると、2つのトイレは見た目こそ均等だが、圧倒的に女子トイレの列の方が長いのだ。

あたかも均等であるように見せ、その実、この世の不条理、不平等の図式すら提示して見せる手数の多さに私は瞳をそっと閉じ、そして静かに膝を屈した…

 

 

 しかし、この問いの懐の深さは絶望だけを提示するものでもない。

 

「ここにトイレがあります」

「残念だけど私にできるのは…ここまで」

「ここからは貴方自身でそれ以外を作っていくのですよ。最後まで私は見守っています」

 

女神からの天啓である。

これは希望の物語だ。失う為の旅ではない。

手に入れる為の、取り戻すための物語だ。

 

今は先の見えない旅路も、全てはここから始めればいい。

なにせ、何はなくともトイレはあるのだから。

恐れることは何もないのだ。

 

鋼の錬金術師最終話。

弟を取り戻し、そして錬金術を失ったその旅路の果てに、屋根の上から満足感いっぱいに村を見渡していたエドワードの気持ちがほんの少しだけ理解できた気がした。

 

「ここにトイレがあります」

次は貴方の番かもしれない。

 

オタクの話

先日、出張でとある大学へと行ってきた。

ついこの間まで自らも大学生だったわけだが、ジャージにネックウォーマーを巻いてクロックスでキャンパス内を闊歩する学生を見たら妙に懐かしい気持ちにさせられた。

大学はとにかく自由だ。社会人の自由度がFF13くらいだとすると大学生の自由度はきっとスカイリムくらいはあるだろう。

まだ就職して半年だが会社と社会に縛られることが軒並みに増えてしまった。

この会社で定年まで勤め上げるビジョンはなかなか見えないが、今は日々の生活をこなすことで精一杯だ。

当面は別段のトラブルを起こさずに、地に足を付けて静かに暮らすことなどを考えている。

 

しかし、こうした日常を願う中でふとした瞬間、私はいまだに心の片隅で懐かしい影を探している。

彼女は教室の一番後ろ、窓際のあの席で仏頂面で外を眺めている。

そうかと思えば、興味を引くもの見つけた時の笑顔は太陽の如し。まさに彼女のその名の示す通りのものである。

世界を、大いに盛り上げるための、涼宮ハルヒの団、SOS団 団長 涼宮ハルヒ

 

私は、未だに彼女の影を追っている。

 

2016年は、ハルヒのアニメ放送開始からちょうど10周年だった。

 

この10年間で深夜アニメ市場は06年当時からは考えられないほど巨大化し、1クールで放送されるアニメの数も膨大なものとなった。

 

誤解を恐れずに言う。

きっとこの10年で涼宮ハルヒシリーズより面白い作品は山のように世に出ただろう。

きっとこの10年で涼宮ハルヒシリーズより後に始まり、先に終わった優れた作品は数知れないだろう。

 

しかし、それでも、なのだ。

 

それでもなお、なぜ”涼宮ハルヒ”が特別であるのか

 

ハルヒは06年のあの年、00年代の折り返しにおいて、時代に「杭」を打ち込んだ。

深夜アニメ躍進の杭を時代に突き刺した。

京都アニメーションの作画クオリティは当時のアニメ作画のスタンダードを置き去りにし、その基準を引き上げた。

とにかく綺麗でとにかく動く。

「杭を打った」と言ったのは時代をハルヒ以前とハルヒ以降とに分断したという意味だが、これは「種をまいた」と言い換えてもいい。

ハルヒはまだ荒地で数本の草木が散見されるに留まっていた深夜アニメという土地に種をまき、深夜アニメ勃興の土壌を敷いた。

 

と、異論はあるかもしれないが、これはハルヒが当時の他の作品より抜きんでて話題になっていたわりと客観的な話だ。

 

自分が真にハルヒを特別に思っているのはこんなことが理由ではない。

もっと単純で、どうしようもない大きな理由。

自分は中高生という時代を、彼女らの時間と重なって過ごしてしまった。これに尽きるのだ。

学校があって、教室があって、そこで過ごして、夏休みがあって、講堂があって、文化祭があって、

今よりもずっと、ダイレクトに作品の空気感を味わうことができていた

様々な「学生生活」のパーツが画面の向こうと重なっていた。

むせ返るような、青の匂いがした。

 

違ったのは一つだけだ。

ハルヒだけが、隣にいなかった。

自分にとって、涼宮ハルヒという名前をして、黄色いリボンと赤い腕章を付けたあの少女はノスタルジックと非日常を同時に想起させてくれる一つのシンボルになってしまった。

作中同様に私の世界を変えて欲しかった。

 

だから、今でも「俺」は待っている。

昼下がりの会社。

眠気覚ましの為だけに、別段好きでもないブラックコーヒーを雑に胃袋に流し込んで、excelのデータを眺めていても、今日は何時に帰れるかの算段ばかりしてしまう。

そんな自分の呆けた首根っこを摑まえて

「良いことを思いついたわ!アンタも手伝いなさいよね!」

と、突拍子もなく非日常へと連れ出してくれる、そんな存在の登場を。

 

とある映画の台詞で「14歳の時に聴いた音楽が人生で一番印象に残る」という話があった。

これについて自分も思い当たる節が大いにあるが、きっとこれは音楽だけの話ではない。

十代の時に見聞きしたあらゆるものはその人の人生の下地になる、大切なものだ。

 

自分にとっては偶然そこにいたのがハルヒだった、というだけの話だ。

人それぞれ、人生の数だけ、その人の「涼宮ハルヒ」がいるはずである。

それをどうか、いつまでも大切にして欲しい。

 

俺はスクールランブルの八雲。

 

滑らない話

皆さんは滑らない話をお持ちだろうか。

人間、生きていれば滑らない話の一つや二つはあるのが自然だろう。

私とて例外ではない。

 

なので今回は私のとっておき、百戦錬磨の滑らない話を披露したいと思う。

 

中学生の頃だ。

友達がいた。

名前は仮にU太くんとしておく。

U太くんは持っているゲームボーイがお母さんがゴミ捨て場から拾ってきたものであったり、

休みの日は農協の壁に「ドライブB」と称して壁打ちをしていたり(※U太くんはバスケ部)、

家の前の川で平然と一人で泳いでいたり、デフォルトの状態でなかなかの剛の者だったのだが、今回の滑らない話はそれらとは別のU太くんの家に行った際に起きた(?)印象深い出来事である。

 

U太くんの家に初めて行った時のことだ。

TVが、あった。

いやそりゃあるだろうという感想はもっともだが、そのTVが普通の状態ではなかったのである。

TVの画面下部に一直線にガムテープが貼ってあったのだ。

 

 

こんな風に。

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私は故障でもしているのかな?と思い、軽い気持ちで、本当に軽い気持ちで尋ねた。

「何でガムテープ貼ってあるの?壊れてるの?」

 

まさかこれがとんでもないパンドラの箱だとは露知らず…

 

U太くんは真顔で答えた。

 

 

 

 

 

「ああ、あれ?アニメのOPの歌詞見ないで歌う為だよ」

 

 

 

 

 

 

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おわかりになっただろうか?

そうなのだ。

馬鹿なのは私だったのだ。

あの位置のガムテープに「アニメのOPの歌詞を隠す」以外の用途などあるだろうか?いやない。

「わからされた」という思いだった。

まさか齢13にして真の天才の存在を知ることになろうとは。

 

その後のことはこの衝撃が大きすぎてよく覚えていないが、

しばらくしてU太くんが「ジャイロボールを投げられるようになった(※U太くんはバスケ部)」と言っているのを聞いたので、たぶんU太くんはジャイロボールも投げられるし、MAJORのOPも完璧に歌えるようになったんだろうなあ、と一人で得心していた。

 

 

滑らない話、終わり。

儚げな少女に消えられたい

儚いものに惹かれる。

恒常的、永久的にそこに存在し続ける安定したものよりも、いつ消えてしまうのかと心配になるような不安定なものこそを愛でたい、と思っている。

春の終わり、桜木に残った最後のひとひらのような

冬の朝、水面に張った脆く薄い氷のような

 

そういった刹那的な存在に価値を見出したい。

これは日本人としてそれほど珍しい趣向ではないはずだ。

華は散るからこそに美しい、とはまさに至言である。

 

さて、ものだけでなく、人を評する際にも「儚げな」と表現することがある。

こういった場合、大抵ポジティブな意味ととって間違いないだろう。

儚げな人…儚げな少女…といった具合だ。

特に深く考えずとも、「儚げな少女」と聞いて、私も胸が躍る。端的に言って好きだ。

では、儚げな少女とはいったいどんな少女なのだろうか。

儚げな、という形容詞を冠するに値する名詞というのは多くはない。

ここで私は、儚げであるからには少女でなくては成立しないのではないか。と閃いた。

しかも美少女でなくてはならないのでは、と。

つまりだ。

 

「儚げなブス」と聞いて納得ができるか

である。

 

私はできない。この理不尽に断固抗議する。

こんな見事な相殺がこの世にあっていいのかと。

皆さんもぜひ試しに声に出して「儚げなブス」と言ってみて欲しい。

口が楽しくなるくらいには違和感しかないはずだ。

当然である。儚げなブスなど存在しえないのだから。

 

儚げな美少女は不安定である。今にもその白く細い足の先から、透けて消えてしまうのではないかとこちらをハラハラさせる。彼女はいつも伏し目がちで、なかなか顔を上げてはくれない。しかし私は既に知っている。本当はその瞳が、この世界の何よりも美しく、何よりも無垢であることを。

 

一方、そこでブスはというと、

しっかりとその足で大地を踏みしめ、こちらを見据えている。

揺らぐ様子は微塵もない、見事な仁王立ちである。

同じく仁王立ちで有名な、かの武蔵坊弁慶は99本の刀を携えたというが、ブスはその圧倒的な存在感という名のドラゴン殺しただ一本を構えてそこに起立している。

 

「ああ、ブスがいるな」と。この2つの網膜に、鼓膜に、過剰に訴えてくる。

皆さんも日々の生活の中で、空気の震えや風の音からブスの気配を感じ取った経験は少なくないはずだ。

ブスは存在が現実的すぎるのだ。

もし人間の存在に対してWordやexcelの図形の透過性のようなパラメーターがあるとしたら、ブスの透過性は文句なしの0%だろう。

 

よって儚げなブスなどありえないと結論する。

そして、私はブスの話がしたかったのではない。

頼むから儚げな美少女の話をさせてくれ。

 

私は儚げな少女にある日突然、消えられたい。

日々の暮らしの中で、彼女の笑顔、彼女の楽しげな声を聞けば、もちろん私も嬉しくなる。良かった、彼女と時間を共有できて本当に幸せだなと感じる。

しかし、それとほぼ同時に不安にも駆られるのだ。

なぜだか理由はわからないが、この子はいつか消えてなくなってしまう気がする、と。この世界に彼女がいた証拠全てと一緒に、ある日忽然といなくなってしまう気がすると。浮世離れした、どこか現実感のない彼女の横顔を見るたびに、幸せという名の積み木を積めば積むほど、私は一人、それが崩れる瞬間を思って焦燥感を抱くのだ。

 

消えるシチュエーションだが、個人的に理想はある。

 

 

ある夏の日、二人は手を繋ぎ、いつもの道を歩いていた。

すると突然、太陽が燦燦と照りつけているというのに、バケツをひっくり返したような夕立に見舞われる。

この夏の、全てを洗い流そうとするかのようなそれに目を奪われて立ち止まるが、ふと気が付くと隣にいたはずの彼女がいない。驚いて辺りを見渡すと自分の後ろ、10mほど離れた場所になぜか彼女は立っていた。

何が起きたのか理解できず、すぐさま彼女に駆け寄ろうとする。しかし彼女は叫ぶのだ。

「来ては駄目」と。

その声に驚いて足を止める。彼女は笑顔とも泣き顔ともつかない表情で俺を見る。

依然として、青空からは夕立が降り注ぐ。むしろどんどん強くなっていく。

彼女が何かを言っているが、聞き取れない。それは雨音のせいなのか、はたまたもう声は出ていないのか。

俺も必死に叫ぶが彼女の耳には届いていない。

そして彼女が最後に微笑むと、夕立があがり、それとともに彼女は消えていた。

 

私の中で、儚げな美少女は世界から消えることで、真に儚げな美少女として完成するのだから、この別れは必然だ。

ずっと、いつかこの日が来るのではないかと不安だった。

覚悟はできている。と、自分を過大評価していた。涙はひとつも止まらなかった。

その年の一番暑い、夏の日の午後のことだった。

 

 

これが夕立式の全容である。興奮で一人称が変わってしまった。

頭がおかしいのでは?と不安に思った方には申し訳ないがその通りである。

ちなみに、このシチュエーションは奥華子の「夕立」という曲が元ネタとなっているので、是非聴いてほしい。

自分はこの曲を聴くたびにこんな妄想をしては涙を流している。

 

現在、儚げな美少女はいまだ私の前に現れてくれないが、きっといつか、見つけてみせる。

儚げで、病弱で、白い肌に細い首筋、白い髪は艶やかで、瞳はガラス細工と見紛うほど美しく。笑顔は素敵だが、どこか現実感が欠如している。そんな美少女を。

 

何を馬鹿なことを、と思った方。

今は無粋な物言いは止めにしようではないか。

 

いという字がどうなりたっているかは、誰の目にも明らかなのだから。