おーじの覚書

日々考えては霧散していくような何でもないことを覚え書き程度に。へヴィメタルと格ゲーを愛する社会人一年目

儚げな少女と出会いたいという話

儚いものに惹かれる。

恒常的、永久的にそこに存在し続ける安定したものよりも、いつ消えてしまうのかと心配になるような不安定なものこそを愛でたい、と思っている。

春の終わり、桜木に残った最後のひとひらのような

冬の朝、水面に張った脆く薄い氷のような

 

そういった刹那的な存在に価値を見出したい。

これは日本人としてそれほど珍しい趣向ではないはずだ。

華は散るからこそに美しい、とはまさに至言である。

 

さて、ものだけでなく、人を評する際にも「儚げな」と表現することがある。

こういった場合、大抵ポジティブな意味ととって間違いないだろう。

儚げな人…儚げな少女…といった具合だ。

特に深く考えずとも、「儚げな少女」と聞いて、私も胸が躍る。端的に言って好きだ。

では、儚げな少女とはいったいどんな少女なのだろうか。

儚げな、という形容詞を冠するに値する名詞というのは多くはない。

ここで私は、儚げであるからには少女でなくては成立しないのではないか。と閃いた。

しかも美少女でなくてはならないのでは、と。

つまりだ。

 

「儚げなブス」と聞いて納得ができるか

である。

 

私はできない。この理不尽に断固抗議する。

こんな見事な相殺がこの世にあっていいのかと。

皆さんもぜひ試しに声に出して「儚げなブス」と言ってみて欲しい。

口が楽しくなるくらいには違和感しかないはずだ。

当然である。儚げなブスなど存在しえないのだから。

 

儚げな美少女は不安定である。今にもその白く細い足の先から、透けて消えてしまうのではないかとこちらをハラハラさせる。彼女はいつも伏し目がちで、なかなか顔を上げてはくれない。しかし私は既に知っている。本当はその瞳が、この世界の何よりも美しく、何よりも無垢であることを。

 

一方、そこでブスはというと、

しっかりとその足で大地を踏みしめ、こちらを見据えている。

揺るぐ様子は微塵もない、見事な仁王立ちである。

同じく仁王立ちで有名な、かの武蔵坊弁慶は99本の刀を携えたというが、ブスはその圧倒的な存在感という名のドラゴン殺しただ一本を構えてそこに起立している。

 

「ああ、ブスがいるな」と。この2つの網膜に、鼓膜に、過剰に訴えてくる。

皆さんも日々の生活の中で、空気の震えや風の音からブスの気配を感じ取った経験は少なくないはずだ。

ブスは存在が現実的すぎるのだ。

もし人間の存在に対してWordやexcelの図形の透過性のようなパラメーターがあるとしたら、ブスの透過性は文句なしの0%だろう。

 

よって儚げなブスなどありえないと結論する。

そして、私はブスの話がしたかったのではない。

頼むから儚げな美少女の話をさせてくれ。

 

私は儚げな少女にある日突然、消えられたい。

日々の暮らしの中で、彼女の笑顔、彼女の楽しげな声を聞けば、もちろん私も嬉しくなる。良かった、彼女と時間を共有できて本当に幸せだなと感じる。

しかし、それとほぼ同時に不安にも駆られるのだ。

なぜだか理由はわからないが、この子はいつか消えてなくなってしまう気がする、と。この世界に彼女がいた証拠全てと一緒に、ある日忽然といなくなってしまう気がすると。浮世離れした、どこか現実感のない彼女の横顔を見るたびに、幸せという名の積み木を積めば積むほど、私は一人、それが崩れる瞬間を思って焦燥感を抱くのだ。

 

消えるシチュエーションだが、個人的に理想はある。

 

 

ある夏の日、二人は手を繋ぎ、いつもの道を歩いていた。

すると突然、太陽が燦燦と照りつけているというのに、バケツをひっくり返したような夕立に見舞われる。

この夏の、全てを洗い流そうとするかのようなそれに目を奪われて立ち止まるが、ふと気が付くと隣にいたはずの彼女がいない。驚いて辺りを見渡すと自分の後ろ、10mほど離れた場所になぜか彼女は立っていた。

何が起きたのか理解できず、すぐさま彼女に駆け寄ろうとする。しかし彼女は叫ぶのだ。

「来ては駄目」と。

その声に驚いて足を止める。彼女は笑顔とも泣き顔ともつかない表情で俺を見る。

依然として、青空からは夕立が降り注ぐ。むしろどんどん強くなっていく。

彼女が何かを言っているが、聞き取れない。それは雨音のせいなのか、はたまたもう声は出ていないのか。

俺も必死に叫ぶが彼女の耳には届いていない。

そして彼女が最後に微笑むと、夕立があがり、それとともに彼女は消えていた。

 

私の中で、儚げな美少女は世界から消えることで、真に儚げな美少女として完成するのだから、この別れは必然だ。

ずっと、いつかこの日が来るのではないかと不安だった。

覚悟はできている。と、自分を過大評価していた。涙はひとつも止まらなかった。

その年の一番暑い、夏の日の午後のことだった。

 

 

これが夕立式の全容である。興奮で一人称が変わってしまった。

頭がおかしいのでは?と不安に思った方には申し訳ないがその通りである。

ちなみに、このシチュエーションは奥華子の「夕立」という曲が元ネタとなっているので、是非聴いてほしい。

自分はこの曲を聴くたびにこんな妄想をしては涙を流している。

 

現在、儚げな美少女はいまだ私の前に現れてくれないが、きっといつか、見つけてみせる。

儚げで、病弱で、白い肌に細い首筋、白い髪は艶やかで、瞳はガラス細工と見紛うほど美しく。笑顔は素敵だが、どこか現実感が欠如している。そんな美少女を。

 

何を馬鹿なことを、と思った方。

今は無粋な物言いは止めにしようではないか。

 

いという字がどうなりたっているかは、誰の目にも明らかなのだから。