おーじの覚書

忘れちまった事、忘れらんねぇ事

誤字の話

私は現在、会社の社員寮に住んでいる。寮の玄関は共通で、ちょうど公民館のようなイメージだ。

この玄関横には黒板が設置されており、管理人さんからのお知らせやら張り紙やらを掲示するようになっている。

7月の初めくらいに、そこにこのような文章が手書きで書かれていた。

 

「○○号室の方、深夜の軽体うるさいです!」

 

意味は、わかる。

人間は多少の齟齬はあっても文脈から真意を汲み取れる優れた生き物なのだ。

この時私は「怒って殴り書きしているし、きっと勢いに任せて誤字ってしまったのだろう」と自分を納得させてその場を後にした。

 

そして昨日、ふとその黒板を見ると

 

「○○号室の方、深夜の軽体うるさいです!!」

 

また書いてあった。

!が一つ増えていた。

いやそんなことはどうでもいいし、ましてや○○号室の方が二か月の時を経てほとぼりが冷めたからまたやっちゃたんだろうなというのも私にとっては更にどうでもいい。

 

軽体。

軽体….。

 

いや携帯だろ!

 

ここで「ただの誤字にそんな目くじらたてなくても…」と思った方。

あなたは正しい。そんな他人の些細な誤字などにいちいち引っかかっていたら、このストレスまみれの現代社会では命がいくらあっても足りないだろう。

 けれども、自分はこういうどうでもいいことに引っかかってしまう面倒な性格なのである。ストレス社会とチキンレースを演じてしまう悪癖がある。許してほしい。

 

まず勝手に誤字だと決めつけるのも良くないので少し調べてみることにした。

軽体とは。一発では変換できない。

こんな言葉があるのだろうか。私が知らないだけでは?と自分の浅学を疑い辞書で引いてみてもそんな熟語は存在しなかった。

 

では略語か?

「○○号室の方、深夜の軽量体重計うるさいです!!」

 ○○号室にそんなにぎやかな体重計はないだろう。

 

百歩譲って、軽体...軽い体。軽量ボディ...ゆえに携帯電話を連想させる...と解釈したとしても... 

やはりこの「軽体」はどうあがいても「携帯」の誤字ということなのだ。

 この事実がキツイ。ここで自分は頭痛がしてしまう。

「携帯」というとてつもなく一般化した携帯電話の略を「軽体」と誤字するに至るバックボーンなどを考えて勝手に頭を痛くしてしまう。「怖い」とすら感じてしまう。

単純な話で「携帯」という二文字、これを書こうと思った時、とっさに出てこないこともあるかもしれない。

それこそ今は携帯で一発変換できてしまう時代だ。実際に書こうとしたらとっさに漢字が浮かんでこないなんてことは良くある。

そんな時どうするか。私ならば「ケータイ」と書く。もしくは本末転倒感があるが携帯で調べて書く。

掲示板という不特定多数に見られる場所に書くのだ。誤字は恥ずかしいしそれくらいの行動を挟んでもなんら問題はないだろう。

 

なのに、この人は二回も続けて「軽体」の二文字を民衆へと掲げた。それはもう誇らしげに。

恐らく、この人の中では「けいたいでんわ」は完全に「軽体」なのだ。

 

これに私は恐怖するわけだ。

どんな人生を歩んで来たのだろう。どんな教育を受け、どんな仕事に就き、様々な人と出会って、誰かを好きになって、嫌いになって、世界の美しさと残酷さ、喜びと悲しみ、清濁併せて飲み込んで、

 

 

そしてその先で「軽体」と誤字ってしまったのだろうか。

彼の歩みが、彼の選択が、「携帯」を「軽体」に変えてしまったのだろうか。

 

私程度の矮小な人生ではとても推し量れない。

私程度のつまらない人生では「携帯」はどこまで行っても「携帯」のままだ。

 

 おもしろき こともなき世におもしろく すみなしものは心なりけり

幕末の志士 高杉晋作の辞世の句だ。

 

自分はいささか勝手におもしろくしすぎな気がしないでもない。

 

夏にブランド感を抱いている話

日本に四季があって良かったな、と思う。時の流れを五感で享受できるのは素晴らしいことである。

もしも日本が万年極寒で、枯れ木を踏みしめながら止むことのない吹雪を耐え忍ぶ不毛の大地だったとしたら、私はきっと心が荒んで中二でグレていた。

 そしてグレたからといって不毛の大地にはろくな娯楽施設は無いので不良人生すらも満足に全うできずにその青春を終えるのである。嗜好品は月に一度、旅の商人が無事に村に辿り着けば少しだけ買える。

明けることのない冬、決して来ることのない春に想いを馳せながら人は寄り添って生きていく。

 

 

 

本当に日本に四季があって良かった。おかげでこの歳まで心豊かで品行方正に過ごすことができた。

なかでも夏は素晴らしい、と常々思っている。”夏の魔物”という言葉もあるが、本当に夏という季節には魔力がある。無駄に心が躍るし、無駄にイベントを期待する。

 もうこの歳になって普通に働いていると特に夏らしい何かを全力で楽しむことは難しいのだが、それでも心のどこかで何かを期待している。

「夏だから何かしらあるだろう」

「夏だから何かをしたい」

私は夏に謎の幻想とブランド感を抱いている。

大多数のまともな人々が、書籍や映像作品が描くイベント増しの「仕上がった夏」と自分が無為に過ごしてしまったイベント無しの「浅い夏」のギャップに苛まれて夏への幻想を失っていく。その過程はまさしく正しい。

自分はなぜだか未だにその義務教育を修了しないままここまで来てしまった。

未だに仕上がった夏への憧憬を捨てきれないでいる。

さらに言えば自分は状況に”酔う”方なので、特に何もなくても「今年も夏が来るな…」「今年も夏が逝くな…」などとただ思っているだけでわりと楽しい。

燃費のいいオタクである。

夏である、という状況だけで自分にとっては付加価値なのだ。

この何かに勝手にブランド感を抱く事象はこれまでの人生でも何度かあって、思い出せる限りでは「17歳」にもブランド感を抱いていた。子供でも大人でもない多感な年齢、心も身体もとても微妙で不安定なこの時期に対し私は「ああ…俺は今17歳だ…」と意味不明の感情を抱いていた記憶がある。

なので「17歳の夏」ともなると、もうそれが纏うブランド感はおのずから最強であり、何かを成さんとする気持ちが煮え滾っていた気がする。

ついに来てしまったのかこの時が…と心は逸っていた。

結論から言うと特に何もなかったが。

たぶん普通に友達と遊んで楽しかったと思う。

それでも、締めには「ああ、17歳の夏が逝くぞ…」と謎の多幸感を得ていたのだから私の中では勝ちなのだ。

今思いついたが、それこそ4つも季節があるのだからその全てにブランド感を抱けば私の人生はもうこの先何があっても無敵なのではないだろうか。

全ての季節が来ることに心躍り、全ての季節が去ることを悼む。

最高の1年間の始まりだ。

日本に四季があって良かった。

本当は花粉症が辛いので春は来なくて三季でいい。