笑顔の話
笑顔とは素晴らしいもので、自分も良く笑う人が好きだ。
良く笑う人の周りにはおのずと人が集まり、やがてそれらも等しく笑顔となる。
笑顔の輪は広がり続け、やがて世界へ。
世界進出した笑顔はsmileへと進化し更にはsourireやLächelnとなり国境を超える。
永遠に続くかと思われた戦火はここに潰えたのだ。地球に敷かれた目には見えない傷跡は癒え、この惑星(ほし)は本当の意味で完全なる円となった。
これは皆さんも良く知っている今日までの笑顔が世界を救った歴史を簡単におさらいしたものだが、この過程の一場面を収めた貴重な映像が残っていることを皆さんはご存じだろうか。
それは意外にもとある国民的テレビアニメの一場面として収められていた。
誰もが知っている世界的コンテンツであり、現在もポケモンGOの登場によりその人気は留まるところを知らない。
そんなポケモンに笑顔ロードの軌跡が?
全くもって予想外だ。
しかし確かに、それは1997年9月9日放送のTVアニメポケットモンスター第24話に収められていたのである。
1997年9月、笑顔による天下統一は志半ばで日本の一部の地方を笑顔にしただけに留まっていた。
日本全土を笑顔にしたいという想いを胸にスマイル・マスターを目指して旅を続けていた芸人のサトシ一向はカント―最大の都市であるヤマブキシティを訪れる。
サトシは今回のジム戦でも絶対に笑わせてやるという信念のもと、手持ち最大のピン芸人であるゴーストを擁して戦いの舞台へと望む。
そして対するヤマブキジム ジムリーダーのナツメさんはこちら
笑顔/zero
全く笑っていないではないか。
鉄面皮とはポケモン視聴者が考えた言葉だったのか。
これにはさすがのゴースト師匠も考えてしまう。
まぁここからなんやかんやあるのだがそこは割愛して物語は急速なクライマックスを迎える。
おわかりになるだろうか?
画像から伝わるこの圧
なんとゴースト師匠、全く笑ってくれないナツメさんに対して爆発オチを仕掛けようとしている。いくらなんでも力技である。
このご時世にそんな古典的な方法で人が笑うわけな
遅かった………………
聡明な皆さんなら薄々気がついてると思うが、人はあの距離で爆弾の爆発に巻き込まれれば漏れなく死ぬ。
あのアホゴーストポケモンは人体の仕組みから勉強して出直してほしいものである。
…
……?
…………??
……………………!?
あれは……!?
皆さんは、「世界平和」とは何かをその目で見たことがあるだろうか。
もし、見たことがないのなら、今、ここで、それを目にしたことになるだろう。
可視化された世界平和
人のカタチをした光
何よりも尊いソレ
ナツメさんの笑顔である。
本当に良かった。本当に。
世界が笑顔に包まれるまでの、その軌跡。
ポケモンの1ストーリーとして存在しているということをここに証明できた。
それではまた、笑顔あるところでお会いしましょう。
ナツメほんとすき
神無月の話
気付けば10月。
生まれてこの方、関東平野に肩までどっぷり浸かっていた私が、関西の山あいにやって来て丁度半年がたった。
仕事はそれなり。
趣味もそれなり。だが、それについては人と人の繋がり方とは斯くも面白いな、と膝を打っている。
自分の趣味はゲームにしても、音楽にしても、人付き合いがしやすいなぁと感謝することがままあるのだ。
理由はいくつかあるだろうが、一番は同好の士が集まる場所、人と人が親しくなるまでのインフラ整備が行き届いていることか。
特に昨今の現状を鑑みてゲームセンターはそれが顕著だ。対面に座って対戦した時点で、一言も言葉を交わしていなくても「ネット対戦が気軽にできて、寝間着で寝起きのアホ面でも世界中の誰かと対戦できるこの時代に、自ら街のゲームセンターに足を運んで100円を入れて、向かい合った相手と対戦したい…熱い男じゃねぇかよ…気に入ったぜオメェ…」
までは意思の疎通が完了している。
いや言いすぎか。私はゲーセンが大好きなのだ。
しかし、仲良くなるまでにきちんと手すりがついているのは本当で、バンドをしていても格ゲーをやっていてもそうなのだが、一言目を交わす以前に相手のパフォーマンスや趣向を先に見る機会が比較的多い。こういうプレイをしていて、あそこの場面での展開はああだったなぁだとか、前情報でスタート地点の話題を提供してくれている。
ライブなら演者の足元を見ただけで飲み会での話題は膨らむし、むしろ格ゲーなんてボタンを押すか押さないかだけでも先に相当量の会話を画面内でしているのだから最早初対面の定義が壊れる。人付き合いが苦手でもがっちりサポートしてくれる安心コースだ。
お見合いの決まり文句で「ご趣味は何を?」というのがあるが、この過程を見事に吹っ飛ばしている。ご趣味は今お前とプレイしたゲームだ。
「ご趣味は何を…?」ではなく「直ガ空投げマジで上手いっすね…」と入ることができる。情報量の差が半端ではないし、それこそ前者は会話において「牽制」なのに対して、後者は明らかに目の前まで走ってきて投げている。その後の会話も「投げ間合い」で弾むこと請け合いだろう。
対戦してからお見合いの席を設けるスタイルの格ゲーマーお見合いをビジネスとしてやっていきたい人がいたら、私も一枚噛ませてほしいのでご一報ください。
そんなこんなで、自分も関西に越してきて程なくして、格ゲーとゲーセンのおかげで有難くも楽しく人と繋がれている。感謝しかない。
気付けば、10月。
全国津々浦々の八百万の神々も1年ぶりに出雲大社に集う。
八百万もいるのだから、きっと彼らも未だに初対面の神がいるはずだ。
その時は彼らも「最近なかなか地元の信仰がねぇ…」
と、神様同士前提トークによって、その輪を広げていくのかもしれない。
風情厨とかいうパワーワードで殴られた話
だいぶ前の話になる。
なので、詳細な事の起こりはほとんど覚えていない。
たしか旅行の計画を立てている時だったか。
自分が「静かな旅館で美しい景観を愉しみながら美味しい料理と酒を頂ければ良い」といったような提案をした際、唐突に「あんた風情厨なところあるよね」と認定された。
意味不明の新語だが発言者によると「風情あるシチュエーションが好きでそれに酔うところがある」といったニュアンスらしい。
私はこの発言に対し、こいつは悪鬼羅刹か何かの類か?と震えた。
つまりである。
私はその時、せっかくの旅行なのだからと思い、意識をして風情ある、雰囲気がいいと言い換えてもいいが、そういったシチュエーションを提案していたわけだ。
それに対して「お前風情厨やな~」と言われてみた時の事を想像してみて欲しい。
果たして、怒り以外の感情が残るだろうか?
「お前それなら家でお湯沸かして一平ちゃん食って氷結で乾杯でもいいか?」と言わざる負えないだろう。
きっとそう言ったならば経験上相手は「お前はいつも話が極端なんだよ」と言うに決まっているのだが、そう。風情なんてものは無くそうと思えば無尽蔵に無くせるのだ。
逆に風情を演出しようとすれば大概の人間は背伸びになる。
ましてや一介の大学生である。頑張って相手に喜んで欲しくてする精一杯の背伸びだ。可愛いものだろう。
それを一蹴する「風情厨」というワードの慈悲無き響きは私の心象風景を荒涼へと変えた。
それからというもの私は日々、風情厨というパワーワードの影に怯えることとなる。
会話の中で私の大好きな夏、夜、浴衣、旅館、花火、風鈴、灯篭、というようなパーツを紛れ込ませた瞬間、そこには風情厨認定が首をユラリともたげてくる。すぐそこで大きく口を開いて私が同じ轍を踏むのを今か今かと待ち構えている。その姿はさながら獲物を待つウツボカズラだ。
しかし、それを回避する手段すらも私は既に知っていた。決してやられているばかりではないのだ。その手で未来を勝ち取れ。風情厨認定されずに相手を絶対にがっかりさせない手段がそこにある。
「今度ランドいかね?」
これである。風情の欠片もないかつ力強い。
風情を捨て、巨大なエンターテインメント性の傀儡へと身を窶す格好だ。
私が「風情厨」ならば敵もまた「テーマパーク厨」だったというわけだ。
風情厨VSテーマパーク厨の天下分け目の関ヶ原である。
キャラメルポップコーンの香りを纏った女子大生など全員まとめてプーさんのハニーハントにでもぶち込んでおけばよい。
シーとの二択を迫ることで的を絞らせない択の多さもまた魅力的だ。
しかしランドに行ったら行ったで問題はある。
「クソ楽しい」
これに尽きるだろう。
相手は百戦錬磨のテーマパーク界の絶対王者である。一介の大学生など片手でハッピーにさせられ、夜には満足感と心地よい疲労感を抱いてゲートを抜けさせられること必至だ。
舞浜駅までの道すがら、二人はあーだこーだと一日の素晴らしい思い出を語るのだ。
私が謳う風情などランドの持つその圧倒的なエンターテインメント性の前に粉々に砕かれることだろう。
それはそれとして。
私は自らが風情厨だということを恥じることはない。
先の駄文でも触れたが、日本の四季や情緒を愛でることは素晴らしいと思っているし、それを言葉にもしたい。シチュエーション先行でイベントを考える節が多々あるが、本当にそういった風流めいたものが好きなのだ。
ちなみに言質はとっていて風情厨認定委員会の会長も「風情厨かそうでないかで言えば風情厨の方が良い働きをすることもある」とのことだ。
いつかは完璧な風情を演出し、風情厨から風情王へのランクアップを認めてもらいたいと思っている。
『君の名は。』の話
※ネタバレ有
数々の感想や批評ブログが既にある中で、もう今更自分が感想をブログにすることもないかと思ったが、一応自分の中でのこの作品の位置づけを確認する為にも文字に起こすことにした。
あらすじや細かいことは書かずにすっ飛ばして思ったこと、感じたことだけを書く。
私は、創作物と相対した時、その作品が持つファンタジー要素やSF部分はとにかく「楽しく」エンターテインメントとして受け取れれば満足で、それとは別に物語全体が持つ主題、普遍的なテーマこそを汲み取りたい、と思っている。
ジャンプでいうところの「友情」「努力」「勝利」である。
主題という骨の周りに実った肉ももちろん大好きだが、最終的にはその骨からとれる出汁こそを味わいたい。
なので、逆に言えばそれが汲み取れない、汲み取りづらい作品は苦手である。
そういった趣向があるので、まず君の名は。は好きな作品だった。
双方の入れ替わりや時間のズレや彗星落下といった要素、それらに散りばめられた複線の妙、言わずもがなの映像美、BGMとして終わらず、映像と渾然一体となったRADの楽曲。どれもエンターテインメントとして良質なものだった。最高に楽しかった。
その賑やかしに味付けされた中で、私が作品の持つ普遍的な主題として汲み取ったのは「人の縁」そして「誰かと出会うということの奇跡」である。
「人の縁」は作中だとムスビと言い換えられているが、主人公二人の間以外にも作品のターニングポイントでこのムスビがなければ事が進まなかった場面は多い。
ラーメン屋の店主が糸守生まれだったのはまさに最高のムスビだったし、最後に避難訓練ができたのも、結局は親子のムスビがあったからだ。
人と人との繋がりが結ばれて円(縁)となって世界を動かす。世界を変えていく。作品全体を通してそのエネルギーに満ちていたと思う。
そしてそれと関連して「誰かと出会うことの奇跡」
月並みではあるが、これこそがこの作品が持つ最高に普遍的なテーマだと私は思うのだ。
何が言いたいかというと「別に入れ替わりもなく、彗星なんて欠片も落ちてこず、三葉は普通に高校を卒業して上京し、何の伏線も踏まず、東京で就活中の瀧くんと出逢った」として、それを誰が作中の二人の再会と比べて劣ると言えるだろうか。
それも等しく素晴らしい出逢いのはずだ。
それに二人の記憶はほぼ残っていないのだから限りなくこの状況に近い。
田舎の一人の女子高生と東京の一人の男子高校生が出会うことのムスビ。
そこには何の創作も、ファンタジーも介在しない。普遍的な奇跡。
私達の現実で、明日、誰かと出会うことの奇跡と何ら変わりはない。
この作品はその誰にでも起こりうる「奇跡の瞬間」に辿り着くまでの道のりを、現実よりも少し楽しく、美しく、ドラマティックに、可視化したに過ぎないのだ。
きっと細かい疑問を指摘したブログや考察も多いとは思うが、ここではそれはしない。
最も届けたい物の為に切り捨てられたものもあるはずだ。
良い作品に出会えた。
これもまたムスビ。
初めて出逢う人には今までの人生と何ら変わらず、名前を尋ねるところから始めようと思う。
誤字の話
私は現在、会社の社員寮に住んでいる。寮の玄関は共通で、ちょうど公民館のようなイメージだ。
この玄関横には黒板が設置されており、管理人さんからのお知らせやら張り紙やらを掲示するようになっている。
7月の初めくらいに、そこにこのような文章が手書きで書かれていた。
「○○号室の方、深夜の軽体うるさいです!」
意味は、わかる。
人間は多少の齟齬はあっても文脈から真意を汲み取れる優れた生き物なのだ。
この時私は「怒って殴り書きしているし、きっと勢いに任せて誤字ってしまったのだろう」と自分を納得させてその場を後にした。
そして昨日、ふとその黒板を見ると
「○○号室の方、深夜の軽体うるさいです!!」
また書いてあった。
!が一つ増えていた。
いやそんなことはどうでもいいし、ましてや○○号室の方が二か月の時を経てほとぼりが冷めたからまたやっちゃたんだろうなというのも私にとっては更にどうでもいい。
軽体。
軽体….。
いや携帯だろ!
ここで「ただの誤字にそんな目くじらたてなくても…」と思った方。
あなたは正しい。そんな他人の些細な誤字などにいちいち引っかかっていたら、このストレスまみれの現代社会では命がいくらあっても足りないだろう。
けれども、自分はこういうどうでもいいことに引っかかってしまう面倒な性格なのである。ストレス社会とチキンレースを演じてしまう悪癖がある。許してほしい。
まず勝手に誤字だと決めつけるのも良くないので少し調べてみることにした。
軽体とは。一発では変換できない。
こんな言葉があるのだろうか。私が知らないだけでは?と自分の浅学を疑い辞書で引いてみてもそんな熟語は存在しなかった。
では略語か?
「○○号室の方、深夜の軽量体重計うるさいです!!」
○○号室にそんなにぎやかな体重計はないだろう。
百歩譲って、軽体...軽い体。軽量ボディ...ゆえに携帯電話を連想させる...と解釈したとしても...
やはりこの「軽体」はどうあがいても「携帯」の誤字ということなのだ。
この事実がキツイ。ここで自分は頭痛がしてしまう。
「携帯」というとてつもなく一般化した携帯電話の略を「軽体」と誤字するに至るバックボーンなどを考えて勝手に頭を痛くしてしまう。「怖い」とすら感じてしまう。
単純な話で「携帯」という二文字、これを書こうと思った時、とっさに出てこないこともあるかもしれない。
それこそ今は携帯で一発変換できてしまう時代だ。実際に書こうとしたらとっさに漢字が浮かんでこないなんてことは良くある。
そんな時どうするか。私ならば「ケータイ」と書く。もしくは本末転倒感があるが携帯で調べて書く。
掲示板という不特定多数に見られる場所に書くのだ。誤字は恥ずかしいしそれくらいの行動を挟んでもなんら問題はないだろう。
なのに、この人は二回も続けて「軽体」の二文字を民衆へと掲げた。それはもう誇らしげに。
恐らく、この人の中では「けいたいでんわ」は完全に「軽体」なのだ。
これに私は恐怖するわけだ。
どんな人生を歩んで来たのだろう。どんな教育を受け、どんな仕事に就き、様々な人と出会って、誰かを好きになって、嫌いになって、世界の美しさと残酷さ、喜びと悲しみ、清濁併せて飲み込んで、
そしてその先で「軽体」と誤字ってしまったのだろうか。
彼の歩みが、彼の選択が、「携帯」を「軽体」に変えてしまったのだろうか。
私程度の矮小な人生ではとても推し量れない。
私程度のつまらない人生では「携帯」はどこまで行っても「携帯」のままだ。
おもしろき こともなき世におもしろく すみなしものは心なりけり
幕末の志士 高杉晋作の辞世の句だ。
自分はいささか勝手におもしろくしすぎな気がしないでもない。
夏にブランド感を抱いている話
日本に四季があって良かったな、と思う。時の流れを五感で享受できるのは素晴らしいことである。
もしも日本が万年極寒で、枯れ木を踏みしめながら止むことのない吹雪を耐え忍ぶ不毛の大地だったとしたら、私はきっと心が荒んで中二でグレていた。
そしてグレたからといって不毛の大地にはろくな娯楽施設は無いので不良人生すらも満足に全うできずにその青春を終えるのである。嗜好品は月に一度、旅の商人が無事に村に辿り着けば少しだけ買える。
明けることのない冬、決して来ることのない春に想いを馳せながら人は寄り添って生きていく。
本当に日本に四季があって良かった。おかげでこの歳まで心豊かで品行方正に過ごすことができた。
なかでも夏は素晴らしい、と常々思っている。”夏の魔物”という言葉もあるが、本当に夏という季節には魔力がある。無駄に心が躍るし、無駄にイベントを期待する。
もうこの歳になって普通に働いていると特に夏らしい何かを全力で楽しむことは難しいのだが、それでも心のどこかで何かを期待している。
「夏だから何かしらあるだろう」
「夏だから何かをしたい」
私は夏に謎の幻想とブランド感を抱いている。
大多数のまともな人々が、書籍や映像作品が描くイベント増しの「仕上がった夏」と自分が無為に過ごしてしまったイベント無しの「浅い夏」のギャップに苛まれて夏への幻想を失っていく。その過程はまさしく正しい。
自分はなぜだか未だにその義務教育を修了しないままここまで来てしまった。
未だに仕上がった夏への憧憬を捨てきれないでいる。
さらに言えば自分は状況に”酔う”方なので、特に何もなくても「今年も夏が来るな…」「今年も夏が逝くな…」などとただ思っているだけでわりと楽しい。
燃費のいいオタクである。
夏である、という状況だけで自分にとっては付加価値なのだ。
この何かに勝手にブランド感を抱く事象はこれまでの人生でも何度かあって、思い出せる限りでは「17歳」にもブランド感を抱いていた。子供でも大人でもない多感な年齢、心も身体もとても微妙で不安定なこの時期に対し私は「ああ…俺は今17歳だ…」と意味不明の感情を抱いていた記憶がある。
なので「17歳の夏」ともなると、もうそれが纏うブランド感はおのずから最強であり、何かを成さんとする気持ちが煮え滾っていた気がする。
ついに来てしまったのかこの時が…と心は逸っていた。
結論から言うと特に何もなかったが。
たぶん普通に友達と遊んで楽しかったと思う。
それでも、締めには「ああ、17歳の夏が逝くぞ…」と謎の多幸感を得ていたのだから私の中では勝ちなのだ。
今思いついたが、それこそ4つも季節があるのだからその全てにブランド感を抱けば私の人生はもうこの先何があっても無敵なのではないだろうか。
全ての季節が来ることに心躍り、全ての季節が去ることを悼む。
最高の1年間の始まりだ。
日本に四季があって良かった。
本当は花粉症が辛いので春は来なくて三季でいい。