おーじの覚書

忘れちまった事、忘れらんねぇ事

駅のトイレの話

駅での話である。

 気にしている方がどれ程いるのかは定かではないが、今の時代、大きな駅のトイレにはだいたいその場所を知らせる音声アナウンスが配備されている。

これはもちろん、目の不自由な人に向けられたものだ。

それ以外の人が聞いてもほぼ意味はないと言っていい。

 

だが、このブログは時としてほぼ意味のないものに無理やり意味を押し付ける暴力的な一面があるのだ。

 

 

 東京~新大阪まで2時間半。長くて短い旅路を終えた私は、新幹線を降り、改札を目指しぼーっと歩いていた。

早く帰りたい、それ以外の行動理念の全てを剥奪された、帰宅に狂う獣である。

 その時だ。

 

「ここにトイレがあります」

 

優しくも無機質な声が、空っぽとなっていた獣のアタマのど真ん中へ、空虚かつ凄絶に響いた。

ただの肉喰らう獣だったものが突如として「思考する」という概念を神から押し付けられた。

「考えることを止めるな」そんな力強さを感じた。

 

「ここにトイレがあります」

 

提示された格好だ。

「しまった」と思った。

完全に後手に回らされた。

 

「ここにトイレがあります」

「そう。あるのだ。トイレが、ここに」

 「ならば、そなたはどうする?」

 

そう言われている気がした。

脳が焼き切れそうだった。

思考が追い付かない。

 

実際には「ここにトイレがあります」としか言われていない。

だからこその恐怖だ。さながらの圧政だ。

 

トイレがあるということだけは、矮小たる貴様に教えてやる。

そこからどうするかは貴様の自由だ、もの言わぬ獣よ。

 

身体の震えが止まらない。あるいはこれは武者震いだろうか。

口の中は砂漠、指先は命令中枢から切り離され、既に感覚を失い始めていた。

 

まぎれもなく、トイレはある。それはもう揺るぎない事実で動かすことはできない。そこまではなんとか飲み込んだ。

しかしだ。私は気づいてしまった。

男子トイレと女子トイレがしっかり1つずつ、青と赤が不気味なほど均等に並んでいるではないか。

トイレ1つすら満足に背負えないこの獣の身に、よもや男女2つのトイレとは。

しかもだ。よく見ると、2つのトイレは見た目こそ均等だが、圧倒的に女子トイレの列の方が長いのだ。

あたかも均等であるように見せ、その実、この世の不条理、不平等の図式すら提示して見せる手数の多さに私は瞳をそっと閉じ、そして静かに膝を屈した…

 

 

 しかし、この問いの懐の深さは絶望だけを提示するものでもない。

 

「ここにトイレがあります」

「残念だけど私にできるのは…ここまで」

「ここからは貴方自身でそれ以外を作っていくのですよ。最後まで私は見守っています」

 

女神からの天啓である。

これは希望の物語だ。失う為の旅ではない。

手に入れる為の、取り戻すための物語だ。

 

今は先の見えない旅路も、全てはここから始めればいい。

なにせ、何はなくともトイレはあるのだから。

恐れることは何もないのだ。

 

鋼の錬金術師最終話。

弟を取り戻し、そして錬金術を失ったその旅路の果てに、屋根の上から満足感いっぱいに村を見渡していたエドワードの気持ちがほんの少しだけ理解できた気がした。

 

「ここにトイレがあります」

次は貴方の番かもしれない。

 

オタクの話

先日、出張でとある大学へと行ってきた。

ついこの間まで自らも大学生だったわけだが、ジャージにネックウォーマーを巻いてクロックスでキャンパス内を闊歩する学生を見たら妙に懐かしい気持ちにさせられた。

大学はとにかく自由だ。社会人の自由度がFF13くらいだとすると大学生の自由度はきっとスカイリムくらいはあるだろう。

まだ就職して半年だが会社と社会に縛られることが軒並みに増えてしまった。

この会社で定年まで勤め上げるビジョンはなかなか見えないが、今は日々の生活をこなすことで精一杯だ。

当面は別段のトラブルを起こさずに、地に足を付けて静かに暮らすことなどを考えている。

 

しかし、こうした日常を願う中でふとした瞬間、私はいまだに心の片隅で懐かしい影を探している。

彼女は教室の一番後ろ、窓際のあの席で仏頂面で外を眺めている。

そうかと思えば、興味を引くもの見つけた時の笑顔は太陽の如し。まさに彼女のその名の示す通りのものである。

世界を、大いに盛り上げるための、涼宮ハルヒの団、SOS団 団長 涼宮ハルヒ

 

私は、未だに彼女の影を追っている。

 

2016年は、ハルヒのアニメ放送開始からちょうど10周年だった。

 

この10年間で深夜アニメ市場は06年当時からは考えられないほど巨大化し、1クールで放送されるアニメの数も膨大なものとなった。

 

誤解を恐れずに言う。

きっとこの10年で涼宮ハルヒシリーズより面白い作品は山のように世に出ただろう。

きっとこの10年で涼宮ハルヒシリーズより後に始まり、先に終わった優れた作品は数知れないだろう。

 

しかし、それでも、なのだ。

 

それでもなお、なぜ”涼宮ハルヒ”が特別であるのか

 

ハルヒは06年のあの年、00年代の折り返しにおいて、時代に「杭」を打ち込んだ。

深夜アニメ躍進の杭を時代に突き刺した。

京都アニメーションの作画クオリティは当時のアニメ作画のスタンダードを置き去りにし、その基準を引き上げた。

とにかく綺麗でとにかく動く。

「杭を打った」と言ったのは時代をハルヒ以前とハルヒ以降とに分断したという意味だが、これは「種をまいた」と言い換えてもいい。

ハルヒはまだ荒地で数本の草木が散見されるに留まっていた深夜アニメという土地に種をまき、深夜アニメ勃興の土壌を敷いた。

 

と、異論はあるかもしれないが、これはハルヒが当時の他の作品より抜きんでて話題になっていたわりと客観的な話だ。

 

自分が真にハルヒを特別に思っているのはこんなことが理由ではない。

もっと単純で、どうしようもない大きな理由。

自分は中高生という時代を、彼女らの時間と重なって過ごしてしまった。これに尽きるのだ。

学校があって、教室があって、そこで過ごして、夏休みがあって、講堂があって、文化祭があって、

今よりもずっと、ダイレクトに作品の空気感を味わうことができていた

様々な「学生生活」のパーツが画面の向こうと重なっていた。

むせ返るような、青の匂いがした。

 

違ったのは一つだけだ。

ハルヒだけが、隣にいなかった。

自分にとって、涼宮ハルヒという名前をして、黄色いリボンと赤い腕章を付けたあの少女はノスタルジックと非日常を同時に想起させてくれる一つのシンボルになってしまった。

作中同様に私の世界を変えて欲しかった。

 

だから、今でも「俺」は待っている。

昼下がりの会社。

眠気覚ましの為だけに、別段好きでもないブラックコーヒーを雑に胃袋に流し込んで、excelのデータを眺めていても、今日は何時に帰れるかの算段ばかりしてしまう。

そんな自分の呆けた首根っこを摑まえて

「良いことを思いついたわ!アンタも手伝いなさいよね!」

と、突拍子もなく非日常へと連れ出してくれる、そんな存在の登場を。

 

とある映画の台詞で「14歳の時に聴いた音楽が人生で一番印象に残る」という話があった。

これについて自分も思い当たる節が大いにあるが、きっとこれは音楽だけの話ではない。

十代の時に見聞きしたあらゆるものはその人の人生の下地になる、大切なものだ。

 

自分にとっては偶然そこにいたのがハルヒだった、というだけの話だ。

人それぞれ、人生の数だけ、その人の「涼宮ハルヒ」がいるはずである。

それをどうか、いつまでも大切にして欲しい。

 

俺はスクールランブルの八雲。

 

滑らない話

皆さんは滑らない話をお持ちだろうか。

人間、生きていれば滑らない話の一つや二つはあるのが自然だろう。

私とて例外ではない。

 

なので今回は私のとっておき、百戦錬磨の滑らない話を披露したいと思う。

 

中学生の頃だ。

友達がいた。

名前は仮にU太くんとしておく。

U太くんは持っているゲームボーイがお母さんがゴミ捨て場から拾ってきたものであったり、

休みの日は農協の壁に「ドライブB」と称して壁打ちをしていたり(※U太くんはバスケ部)、

家の前の川で平然と一人で泳いでいたり、デフォルトの状態でなかなかの剛の者だったのだが、今回の滑らない話はそれらとは別のU太くんの家に行った際に起きた(?)印象深い出来事である。

 

U太くんの家に初めて行った時のことだ。

TVが、あった。

いやそりゃあるだろうという感想はもっともだが、そのTVが普通の状態ではなかったのである。

TVの画面下部に一直線にガムテープが貼ってあったのだ。

 

 

こんな風に。

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私は故障でもしているのかな?と思い、軽い気持ちで、本当に軽い気持ちで尋ねた。

「何でガムテープ貼ってあるの?壊れてるの?」

 

まさかこれがとんでもないパンドラの箱だとは露知らず…

 

U太くんは真顔で答えた。

 

 

 

 

 

「ああ、あれ?アニメのOPの歌詞見ないで歌う為だよ」

 

 

 

 

 

 

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おわかりになっただろうか?

そうなのだ。

馬鹿なのは私だったのだ。

あの位置のガムテープに「アニメのOPの歌詞を隠す」以外の用途などあるだろうか?いやない。

「わからされた」という思いだった。

まさか齢13にして真の天才の存在を知ることになろうとは。

 

その後のことはこの衝撃が大きすぎてよく覚えていないが、

しばらくしてU太くんが「ジャイロボールを投げられるようになった(※U太くんはバスケ部)」と言っているのを聞いたので、たぶんU太くんはジャイロボールも投げられるし、MAJORのOPも完璧に歌えるようになったんだろうなあ、と一人で得心していた。

 

 

滑らない話、終わり。

儚げな少女に消えられたい

儚いものに惹かれる。

恒常的、永久的にそこに存在し続ける安定したものよりも、いつ消えてしまうのかと心配になるような不安定なものこそを愛でたい、と思っている。

春の終わり、桜木に残った最後のひとひらのような

冬の朝、水面に張った脆く薄い氷のような

 

そういった刹那的な存在に価値を見出したい。

これは日本人としてそれほど珍しい趣向ではないはずだ。

華は散るからこそに美しい、とはまさに至言である。

 

さて、ものだけでなく、人を評する際にも「儚げな」と表現することがある。

こういった場合、大抵ポジティブな意味ととって間違いないだろう。

儚げな人…儚げな少女…といった具合だ。

特に深く考えずとも、「儚げな少女」と聞いて、私も胸が躍る。端的に言って好きだ。

では、儚げな少女とはいったいどんな少女なのだろうか。

儚げな、という形容詞を冠するに値する名詞というのは多くはない。

ここで私は、儚げであるからには少女でなくては成立しないのではないか。と閃いた。

しかも美少女でなくてはならないのでは、と。

つまりだ。

 

「儚げなブス」と聞いて納得ができるか

である。

 

私はできない。この理不尽に断固抗議する。

こんな見事な相殺がこの世にあっていいのかと。

皆さんもぜひ試しに声に出して「儚げなブス」と言ってみて欲しい。

口が楽しくなるくらいには違和感しかないはずだ。

当然である。儚げなブスなど存在しえないのだから。

 

儚げな美少女は不安定である。今にもその白く細い足の先から、透けて消えてしまうのではないかとこちらをハラハラさせる。彼女はいつも伏し目がちで、なかなか顔を上げてはくれない。しかし私は既に知っている。本当はその瞳が、この世界の何よりも美しく、何よりも無垢であることを。

 

一方、そこでブスはというと、

しっかりとその足で大地を踏みしめ、こちらを見据えている。

揺らぐ様子は微塵もない、見事な仁王立ちである。

同じく仁王立ちで有名な、かの武蔵坊弁慶は99本の刀を携えたというが、ブスはその圧倒的な存在感という名のドラゴン殺しただ一本を構えてそこに起立している。

 

「ああ、ブスがいるな」と。この2つの網膜に、鼓膜に、過剰に訴えてくる。

皆さんも日々の生活の中で、空気の震えや風の音からブスの気配を感じ取った経験は少なくないはずだ。

ブスは存在が現実的すぎるのだ。

もし人間の存在に対してWordやexcelの図形の透過性のようなパラメーターがあるとしたら、ブスの透過性は文句なしの0%だろう。

 

よって儚げなブスなどありえないと結論する。

そして、私はブスの話がしたかったのではない。

頼むから儚げな美少女の話をさせてくれ。

 

私は儚げな少女にある日突然、消えられたい。

日々の暮らしの中で、彼女の笑顔、彼女の楽しげな声を聞けば、もちろん私も嬉しくなる。良かった、彼女と時間を共有できて本当に幸せだなと感じる。

しかし、それとほぼ同時に不安にも駆られるのだ。

なぜだか理由はわからないが、この子はいつか消えてなくなってしまう気がする、と。この世界に彼女がいた証拠全てと一緒に、ある日忽然といなくなってしまう気がすると。浮世離れした、どこか現実感のない彼女の横顔を見るたびに、幸せという名の積み木を積めば積むほど、私は一人、それが崩れる瞬間を思って焦燥感を抱くのだ。

 

消えるシチュエーションだが、個人的に理想はある。

 

 

ある夏の日、二人は手を繋ぎ、いつもの道を歩いていた。

すると突然、太陽が燦燦と照りつけているというのに、バケツをひっくり返したような夕立に見舞われる。

この夏の、全てを洗い流そうとするかのようなそれに目を奪われて立ち止まるが、ふと気が付くと隣にいたはずの彼女がいない。驚いて辺りを見渡すと自分の後ろ、10mほど離れた場所になぜか彼女は立っていた。

何が起きたのか理解できず、すぐさま彼女に駆け寄ろうとする。しかし彼女は叫ぶのだ。

「来ては駄目」と。

その声に驚いて足を止める。彼女は笑顔とも泣き顔ともつかない表情で俺を見る。

依然として、青空からは夕立が降り注ぐ。むしろどんどん強くなっていく。

彼女が何かを言っているが、聞き取れない。それは雨音のせいなのか、はたまたもう声は出ていないのか。

俺も必死に叫ぶが彼女の耳には届いていない。

そして彼女が最後に微笑むと、夕立があがり、それとともに彼女は消えていた。

 

私の中で、儚げな美少女は世界から消えることで、真に儚げな美少女として完成するのだから、この別れは必然だ。

ずっと、いつかこの日が来るのではないかと不安だった。

覚悟はできている。と、自分を過大評価していた。涙はひとつも止まらなかった。

その年の一番暑い、夏の日の午後のことだった。

 

 

これが夕立式の全容である。興奮で一人称が変わってしまった。

頭がおかしいのでは?と不安に思った方には申し訳ないがその通りである。

ちなみに、このシチュエーションは奥華子の「夕立」という曲が元ネタとなっているので、是非聴いてほしい。

自分はこの曲を聴くたびにこんな妄想をしては涙を流している。

 

現在、儚げな美少女はいまだ私の前に現れてくれないが、きっといつか、見つけてみせる。

儚げで、病弱で、白い肌に細い首筋、白い髪は艶やかで、瞳はガラス細工と見紛うほど美しく。笑顔は素敵だが、どこか現実感が欠如している。そんな美少女を。

 

何を馬鹿なことを、と思った方。

今は無粋な物言いは止めにしようではないか。

 

いという字がどうなりたっているかは、誰の目にも明らかなのだから。

 

笑顔の話

笑顔とは素晴らしいもので、自分も良く笑う人が好きだ。

良く笑う人の周りにはおのずと人が集まり、やがてそれらも等しく笑顔となる。

笑顔の輪は広がり続け、やがて世界へ。

世界進出した笑顔はsmileへと進化し更にはsourireやLächelnとなり国境を超える。

永遠に続くかと思われた戦火はここに潰えたのだ。地球に敷かれた目には見えない傷跡は癒え、この惑星(ほし)は本当の意味で完全なる円となった。

 

これは皆さんも良く知っている今日までの笑顔が世界を救った歴史を簡単におさらいしたものだが、この過程の一場面を収めた貴重な映像が残っていることを皆さんはご存じだろうか。

 

それは意外にもとある国民的テレビアニメの一場面として収められていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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そう。ポケットモンスター、略してポケモンである。

誰もが知っている世界的コンテンツであり、現在もポケモンGOの登場によりその人気は留まるところを知らない。

そんなポケモンに笑顔ロードの軌跡が?

全くもって予想外だ。

 

 

 

しかし確かに、それは1997年9月9日放送のTVアニメポケットモンスター第24話に収められていたのである。

1997年9月、笑顔による天下統一は志半ばで日本の一部の地方を笑顔にしただけに留まっていた。

日本全土を笑顔にしたいという想いを胸にスマイル・マスターを目指して旅を続けていた芸人のサトシ一向はカント―最大の都市であるヤマブキシティを訪れる。

サトシは今回のジム戦でも絶対に笑わせてやるという信念のもと、手持ち最大のピン芸人であるゴーストを擁して戦いの舞台へと望む。

 

そして対するヤマブキジム ジムリーダーのナツメさんはこちら

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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笑顔/zero

全く笑っていないではないか。

鉄面皮とはポケモン視聴者が考えた言葉だったのか。

 

 


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これにはさすがのゴースト師匠も考えてしまう。

 

まぁここからなんやかんやあるのだがそこは割愛して物語は急速なクライマックスを迎える。

 

 

 

 

 

 

 


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おわかりになるだろうか?

画像から伝わるこの

なんとゴースト師匠、全く笑ってくれないナツメさんに対して爆発オチを仕掛けようとしている。いくらなんでも力技である。

このご時世にそんな古典的な方法で人が笑うわけな

 

 

 

 

 

 

 


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遅かった………………

聡明な皆さんなら薄々気がついてると思うが、人はあの距離で爆弾の爆発に巻き込まれれば漏れなく死ぬ。

あのアホゴーストポケモンは人体の仕組みから勉強して出直してほしいものである。

……?

…………??

……………………!?

あれは……!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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皆さんは、「世界平和」とは何かをその目で見たことがあるだろうか。

もし、見たことがないのなら、今、ここで、それを目にしたことになるだろう。

 

可視化された世界平和

人のカタチをした光

何よりも尊いソレ

 


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ナツメさんの笑顔である。

 

本当に良かった。本当に。

世界が笑顔に包まれるまでの、その軌跡。

ポケモンの1ストーリーとして存在しているということをここに証明できた。

 

それではまた、笑顔あるところでお会いしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナツメほんとすき

 

 

神無月の話

気付けば10月。

生まれてこの方、関東平野に肩までどっぷり浸かっていた私が、関西の山あいにやって来て丁度半年がたった。

仕事はそれなり。

趣味もそれなり。だが、それについては人と人の繋がり方とは斯くも面白いな、と膝を打っている。

自分の趣味はゲームにしても、音楽にしても、人付き合いがしやすいなぁと感謝することがままあるのだ。

理由はいくつかあるだろうが、一番は同好の士が集まる場所、人と人が親しくなるまでのインフラ整備が行き届いていることか。
特に昨今の現状を鑑みてゲームセンターはそれが顕著だ。対面に座って対戦した時点で、一言も言葉を交わしていなくても「ネット対戦が気軽にできて、寝間着で寝起きのアホ面でも世界中の誰かと対戦できるこの時代に、自ら街のゲームセンターに足を運んで100円を入れて、向かい合った相手と対戦したい…熱い男じゃねぇかよ…気に入ったぜオメェ…」
までは意思の疎通が完了している。

いや言いすぎか。私はゲーセンが大好きなのだ。

しかし、仲良くなるまでにきちんと手すりがついているのは本当で、バンドをしていても格ゲーをやっていてもそうなのだが、一言目を交わす以前に相手のパフォーマンスや趣向を先に見る機会が比較的多い。こういうプレイをしていて、あそこの場面での展開はああだったなぁだとか、前情報でスタート地点の話題を提供してくれている。

ライブなら演者の足元を見ただけで飲み会での話題は膨らむし、むしろ格ゲーなんてボタンを押すか押さないかだけでも先に相当量の会話を画面内でしているのだから最早初対面の定義が壊れる。人付き合いが苦手でもがっちりサポートしてくれる安心コースだ。

お見合いの決まり文句で「ご趣味は何を?」というのがあるが、この過程を見事に吹っ飛ばしている。ご趣味は今お前とプレイしたゲームだ。

「ご趣味は何を…?」ではなく「直ガ空投げマジで上手いっすね…」と入ることができる。情報量の差が半端ではないし、それこそ前者は会話において「牽制」なのに対して、後者は明らかに目の前まで走ってきて投げている。その後の会話も「投げ間合い」で弾むこと請け合いだろう。
対戦してからお見合いの席を設けるスタイルの格ゲーマーお見合いをビジネスとしてやっていきたい人がいたら、私も一枚噛ませてほしいのでご一報ください。


そんなこんなで、自分も関西に越してきて程なくして、格ゲーとゲーセンのおかげで有難くも楽しく人と繋がれている。感謝しかない。


気付けば、10月。
全国津々浦々の八百万の神々も1年ぶりに出雲大社に集う。
八百万もいるのだから、きっと彼らも未だに初対面の神がいるはずだ。

その時は彼らも「最近なかなか地元の信仰がねぇ…」
と、神様同士前提トークによって、その輪を広げていくのかもしれない。

風情厨とかいうパワーワードで殴られた話

だいぶ前の話になる。

なので、詳細な事の起こりはほとんど覚えていない。

たしか旅行の計画を立てている時だったか。

自分が「静かな旅館で美しい景観を愉しみながら美味しい料理と酒を頂ければ良い」といったような提案をした際、唐突に「あんた風情厨なところあるよね」と認定された。

意味不明の新語だが発言者によると「風情あるシチュエーションが好きでそれに酔うところがある」といったニュアンスらしい。

私はこの発言に対し、こいつは悪鬼羅刹か何かの類か?と震えた。

つまりである。

私はその時、せっかくの旅行なのだからと思い、意識をして風情ある、雰囲気がいいと言い換えてもいいが、そういったシチュエーションを提案していたわけだ。

それに対して「お前風情厨やな~」と言われてみた時の事を想像してみて欲しい。

果たして、怒り以外の感情が残るだろうか?

「お前それなら家でお湯沸かして一平ちゃん食って氷結で乾杯でもいいか?」と言わざる負えないだろう。

きっとそう言ったならば経験上相手は「お前はいつも話が極端なんだよ」と言うに決まっているのだが、そう。風情なんてものは無くそうと思えば無尽蔵に無くせるのだ。

逆に風情を演出しようとすれば大概の人間は背伸びになる。

ましてや一介の大学生である。頑張って相手に喜んで欲しくてする精一杯の背伸びだ。可愛いものだろう。

それを一蹴する「風情厨」というワードの慈悲無き響きは私の心象風景を荒涼へと変えた。

 

それからというもの私は日々、風情厨というパワーワードの影に怯えることとなる。

会話の中で私の大好きな夏、夜、浴衣、旅館、花火、風鈴、灯篭、というようなパーツを紛れ込ませた瞬間、そこには風情厨認定が首をユラリともたげてくる。すぐそこで大きく口を開いて私が同じ轍を踏むのを今か今かと待ち構えている。その姿はさながら獲物を待つウツボカズラだ。

しかし、それを回避する手段すらも私は既に知っていた。決してやられているばかりではないのだ。その手で未来を勝ち取れ。風情厨認定されずに相手を絶対にがっかりさせない手段がそこにある。

 

今度ランドいかね?」

 

これである。風情の欠片もないかつ力強い。

風情を捨て、巨大なエンターテインメント性の傀儡へと身を窶す格好だ。

私が「風情厨」ならば敵もまた「テーマパーク厨」だったというわけだ。

風情厨VSテーマパーク厨の天下分け目の関ヶ原である。

キャラメルポップコーンの香りを纏った女子大生など全員まとめてプーさんのハニーハントにでもぶち込んでおけばよい。

シーとの二択を迫ることで的を絞らせない択の多さもまた魅力的だ。

しかしランドに行ったら行ったで問題はある。

 

「クソ楽しい」

これに尽きるだろう。

相手は百戦錬磨のテーマパーク界の絶対王者である。一介の大学生など片手でハッピーにさせられ、夜には満足感と心地よい疲労感を抱いてゲートを抜けさせられること必至だ。

舞浜駅までの道すがら、二人はあーだこーだと一日の素晴らしい思い出を語るのだ。

私が謳う風情などランドの持つその圧倒的なエンターテインメント性の前に粉々に砕かれることだろう。

 

それはそれとして。

 

私は自らが風情厨だということを恥じることはない。

先の駄文でも触れたが、日本の四季や情緒を愛でることは素晴らしいと思っているし、それを言葉にもしたい。シチュエーション先行でイベントを考える節が多々あるが、本当にそういった風流めいたものが好きなのだ。

 

ちなみに言質はとっていて風情厨認定委員会の会長も「風情厨かそうでないかで言えば風情厨の方が良い働きをすることもある」とのことだ。

 

いつかは完璧な風情を演出し、風情厨から風情王へのランクアップを認めてもらいたいと思っている。