おーじの覚書

忘れちまった事、忘れらんねぇ事

空気を読んでくれという話

「完全にインフルエンザだ」と思った。

体温計には39.5℃とかいう久しく見ていなかった数字が表示されていたし、関節の痛みは高2の時にインフルエンザにかかって泣きながら文化祭を欠席した時のそれを軽く越えていた。

 朝の時点でその状態ならば迷うことなく会社を休んだのだが、あいにく症状が出たのは出勤して3時間ほどが経過した頃であり、意図せずしてオフィスは多勢の健康人間と無勢のリビングデッドという様相を呈することとなった。

 もう、凄まじい帰りたさである。帰宅に狂う獣。

すぐにでも冷えピタをおでこに貼って、体内の水分が全て入れ替わるくらい多量のポカリを飲んで汗をかきたかった。何より、このまま起きていたくなかった。死んでしまうからである。

 だが、私にはすぐに

「熱、ヤバめなんで帰っていいすか?」

と上司に言い出せない理由があった。

なんと、先週も普通に風邪をひいて普通に2日間会社を休んでいたのである。

その時はあまり熱も高くなかったのでdアニメストアで普通にゆるキャン△を見ながらカップヌードル(カレー)を食べていたのである。

普通に、言い出しにくい。

体調管理も社会人の仕事という、手垢まみれで雑菌だらけの言葉がまさにウイルスのごとく私の心を侵食する。されどその言葉は冷たくも、正しい。

安定した労働力を提供する代わりに、私たちは安定した給金を得ている。

システムに組み込まれた装置に、温情は無用である。

想定した動きをしない装置に、報酬は無用である。

 

社会不適合者

 

日本語レッテル界隈でも素人童貞に並ぶパワーを有する強靭なレッテルが頭をよぎり、痛む関節がいっそうきしんだ。

恐怖に震える私は、切り出せずに黙々と、朦朧と、キーボードをたたき続ける。

震える指先が、いつの間にか、insertに触れる。

上書きされていく文章。書替えられていく”それまで”。挿入したかった文章に全てが塗りつぶされていった。"終焉"を痛感する。

その頃には、私の思考はどんどん沼へ、沼へとシフトしていった。

 

『めっちゃしんどそうに仕事して、上司の方に察してもらおう。』

 

日本人のよくない部分が、ハジけた。

俯きながら、時折、碇ゲンドウのようにデスクに肘をついて手を組み、大きなため息をつく。

さぁ、察して見せろ。得意だろ。空気読むの。

『空気を読む』という曖昧模糊なスキルを以て、お前たちはこの経済大国を今日まで回してきたんだろう。見せ場だぞ。お前の声掛け一つで救える命がある。

英雄になりたくはないか?俺は死にたくない。

呼吸は荒い。実際本当に苦しくて気絶寸前なので、演技ではないところがまたこのプランのスマートな部分でもある。

 

はやくしてくれ….限界を感じデスクにうずくまる私を遂に上司が一瞥、口を開いた。

 

「眠いんかぁ?」

 

違う。怪訝な顔をするな。絶妙に心証が悪くなっていそうな間違い方をやめろ。

いや、体調不良でも心証はよくなさそうだが、眠いだけじゃ帰れないし、病院にも行けないじゃないですか。

 もう、流石に限界だった。既に1時間近くしんどそうに仕事をしてしまった。

言うしかない。途絶えそうな意識の中、決意を固めた。

 

「いや…実は朝から熱が39.8℃あって…」

 

0.3℃盛った。理由はわからない。

恐らく、命の瀬戸際に至って私の矮小な部分がコンニチハしたのだと思う。

39.5℃も39.8℃も高熱だし、さして変わりはないのだが、無意識下でより帰れる確率の高い数字を口走ったのだろう。書いていて悲しくなる自己分析。

 

すると上司は言った。

「そんなんはよ言わなアカンやろ。もう帰りな。」

 

 〜〜〜〜〜〜〜〜

 

「「言わなくても、わかるだろ」」

「「言葉にしてくれなきゃ、わかんないよ」」

唇を合わせ、体を重ねた恋人同士でさえ、互いのコミュニケーション上で怠惰や驕りが生じれば簡単に瓦解するというのに。私はいったい、唇も、体も許していない上司に何を期待していたのだろうか。

君と僕とを繋ぐ距離。5Mよりも、まだ遠い。

言わなきゃ、想いは伝わらない。

ありがとう、大切なことを思い出させてくれて。

じゃ俺、病院行くね。

 

 

かくして、私は早退した。

 病院に着き、看護師さんに病状を伝える。

 

「熱がめっちゃ高くて、悪寒がやばくて、それで関節がめっちゃ痛くて、予防接種とかめっちゃ受けてなくて、めっちゃインフルかなって思うんですけど…インフルですよね…?」

 

大学受験の折、どんな現代文の過去問を解いても満点を取っていた時期に

「世界が、俺がマークした記号を後から正解にしている。」

「作者の気持ちとかオカルト言ってる奴は甘え。正解は問題用紙の文章内に書いてあるのだから、正答して当然。現代文は理詰め」

「行間に住んでるから」

などとイキり散らかしていた人間が紡いだ日本語とは思えなかった。

 

看護師さんは言う。

「うーん、たぶんインフルエンザっぽいですねぇ。」

最高。「たぶん」「っぽい」にサンドされた言葉の信憑性のなさは折り紙つきだが、肯定してくれる存在こそまさに今の私にとっては白衣の天使だった。

 

そして、無事に例の「鼻をグリグリされるやつ」を食らい、粘膜を採取される。

弱りに弱っているので、鼻をグリグリされただけで「他殺か?」とも思ったが、なんとか一命は取り留めた。

 

そして待つこと数分。検査結果が出たので病室に呼ばれた。

 

流行時期、高熱、悪寒、関節の痛み...

 

看護師さんの「たぶんインフルっぽいですねぇ」という所感。

 

美しい。状況は整った。あとは医師が最後のピースを埋めるだけだ。

長かった。やっと、楽になれる。さぁ、甘い最期をくれ。俺は出社禁止を手に入れる。

 

 

 

あー、反応でませんでした。インフルじゃないですね!大丈夫です」

 

いや空気読みすぎだろ。流れを察するな。

(もらった解熱剤飲んだらフリーフォールか?と思うくらい熱が下がりました)