かんばせという言葉の持つ美しさについて
私は日本語が好きなので、どうしてもこの手の話をしがちだが、構わず書いていく。
(成り立ちについては他に素晴らしいブログがたくさんあるはずなのでここでは割愛)
『かんばせ』端的に言って顔。その表情。
シンプルに音にしても美しい響きだが、この言葉の最大の魅力は「表情」という意味の中でもよりその一瞬を捉えたニュアンスを含んでいるところだ。
例えるならばカメラが切り取ったその一枚、その刹那の表情というのがイメージに近い。
だが、カメラのカの字もない時代にはそれを面影として瞼の裏に刻む他なかった。
だからこそ人々は、儚いそのひとひらを指して「顔馳せ」と呼んだのかもしれない。
カメラはその朧なる「顔馳せ」を切り取り、残すことができる現代文明が生んだ妖刀だ。皆も、手持ちの妖刀(スマホ)でかんばせを一刀のもとに切り取りまくれる。
しかし、だからといって「かんばせ」を捉えるハードルが下がってもよい謂われにはならない。
飲み会の集合写真、旅行での記念撮影、ミッキーとのハグ。
おそらくそのいずれにも素晴らしい笑顔が収められていることだろう。
楽しい思い出、その1ページを凝縮した尊いものだろう。
だが、果たしてそこに「かんばせ」はあるのだろうか。
私の回答は断じて否。
「花のかんばせ」と例えられる一瞬の輝きは生半可な写真には写らないのだ。
とある放課後。
部活を引退し、その後に続く大学受験を目前に、彼女は決断を迫られていた。
進学後は学業に専念か、それともバレーを続けるのか。それによって進路は大きく変わってしまう。
彼女の両親の希望は学業に専念して欲しい、という至極真っ当なものだった。
第三者である私にも一応の理解は、できる。プロを目指すなんてレベルじゃない人間がいつまでもスポーツという先の見えないものに身を焦がしている様はきっと、とても不確かで、曖昧で。
「あたしさ、18年間生きてきて今が一番悩んでいると思う。でも、本当に怖いのは10年後、20年後に振り返った時に”今考えるとちっぽけな悩みだったなあ”って感じちゃうこと。そんなのは、嫌。今こんなに苦しいんだから、何十年後だってあの時うんと悩んで良かったー!って思いたいわけ。もしいつか、今のあたしを全然知らない誰かにこの話をする時にもさ、すごく、ものすごーく大切な思い出として伝えたい。そう、なりたい。」
3年間笑顔を絶やさず、チームの元気印として常に全力で走ってきた少女が零した、夾雑物のない等身大の本音。傍らでウンウン唸っているに留めていた私だが、「こんな顔もするのだな」と正直、胸が跳ねた。
「あー!!もう、ほんっとなんていうか…...弱いなあ…...」
窓の外に視線を流しながら、彼女は肘をつく。
夕焼けに照らされ赤みを帯びたその横顔に、ほんの少し、光るものを見た。
黄昏。教室。二人きり。
遠くの音楽室からかすかに漏れるユーフォニアムの音だけが、優しく空気を揺らしていた。
パシャ!!!!!
ここである。ここの顔。これこそが「かんばせ」だ。興奮する。
かんばせは狙ってできる表情ではない。ナチュラルな感情の機微の断片だからだ。
カメラを真正面から向けて「はい、表情ください!!」と言って撮られた笑顔ではかんばせの名を拝することは敵わない。そんなものはただの顔面である。
顔面とかんばせは大違いである。
顔面の作画担当が漫☆画太郎ならば、かんばせの作画担当は中村佑介である。
よって先程の少女の横顔はおそらくは教室の隅の掃除用具入れに隠れていた隠密のオッサンなどが密かに撮影したのだ。
かんばせをフィルムに収めるにはリスクが付き物であり、社会的規律を軽んじる忍びのオッサンの助力なしでは成し得ないのだ。
理想のかんばせは、未だ遥か遠い。