おーじの覚書

忘れちまった事、忘れらんねぇ事

夏にブランド感を抱いている話

日本に四季があって良かったな、と思う。時の流れを五感で享受できるのは素晴らしいことである。

もしも日本が万年極寒で、枯れ木を踏みしめながら止むことのない吹雪を耐え忍ぶ不毛の大地だったとしたら、私はきっと心が荒んで中二でグレていた。

 そしてグレたからといって不毛の大地にはろくな娯楽施設は無いので不良人生すらも満足に全うできずにその青春を終えるのである。嗜好品は月に一度、旅の商人が無事に村に辿り着けば少しだけ買える。

明けることのない冬、決して来ることのない春に想いを馳せながら人は寄り添って生きていく。

 

 

 

本当に日本に四季があって良かった。おかげでこの歳まで心豊かで品行方正に過ごすことができた。

なかでも夏は素晴らしい、と常々思っている。”夏の魔物”という言葉もあるが、本当に夏という季節には魔力がある。無駄に心が躍るし、無駄にイベントを期待する。

 もうこの歳になって普通に働いていると特に夏らしい何かを全力で楽しむことは難しいのだが、それでも心のどこかで何かを期待している。

「夏だから何かしらあるだろう」

「夏だから何かをしたい」

私は夏に謎の幻想とブランド感を抱いている。

大多数のまともな人々が、書籍や映像作品が描くイベント増しの「仕上がった夏」と自分が無為に過ごしてしまったイベント無しの「浅い夏」のギャップに苛まれて夏への幻想を失っていく。その過程はまさしく正しい。

自分はなぜだか未だにその義務教育を修了しないままここまで来てしまった。

未だに仕上がった夏への憧憬を捨てきれないでいる。

さらに言えば自分は状況に”酔う”方なので、特に何もなくても「今年も夏が来るな…」「今年も夏が逝くな…」などとただ思っているだけでわりと楽しい。

燃費のいいオタクである。

夏である、という状況だけで自分にとっては付加価値なのだ。

この何かに勝手にブランド感を抱く事象はこれまでの人生でも何度かあって、思い出せる限りでは「17歳」にもブランド感を抱いていた。子供でも大人でもない多感な年齢、心も身体もとても微妙で不安定なこの時期に対し私は「ああ…俺は今17歳だ…」と意味不明の感情を抱いていた記憶がある。

なので「17歳の夏」ともなると、もうそれが纏うブランド感はおのずから最強であり、何かを成さんとする気持ちが煮え滾っていた気がする。

ついに来てしまったのかこの時が…と心は逸っていた。

結論から言うと特に何もなかったが。

たぶん普通に友達と遊んで楽しかったと思う。

それでも、締めには「ああ、17歳の夏が逝くぞ…」と謎の多幸感を得ていたのだから私の中では勝ちなのだ。

今思いついたが、それこそ4つも季節があるのだからその全てにブランド感を抱けば私の人生はもうこの先何があっても無敵なのではないだろうか。

全ての季節が来ることに心躍り、全ての季節が去ることを悼む。

最高の1年間の始まりだ。

日本に四季があって良かった。

本当は花粉症が辛いので春は来なくて三季でいい。