おーじの覚書

忘れちまった事、忘れらんねぇ事

滑らない話

皆さんは滑らない話をお持ちだろうか。

人間、生きていれば滑らない話の一つや二つはあるのが自然だろう。

私とて例外ではない。

 

なので今回は私のとっておき、百戦錬磨の滑らない話を披露したいと思う。

 

中学生の頃だ。

友達がいた。

名前は仮にU太くんとしておく。

U太くんは持っているゲームボーイがお母さんがゴミ捨て場から拾ってきたものであったり、

休みの日は農協の壁に「ドライブB」と称して壁打ちをしていたり(※U太くんはバスケ部)、

家の前の川で平然と一人で泳いでいたり、デフォルトの状態でなかなかの剛の者だったのだが、今回の滑らない話はそれらとは別のU太くんの家に行った際に起きた(?)印象深い出来事である。

 

U太くんの家に初めて行った時のことだ。

TVが、あった。

いやそりゃあるだろうという感想はもっともだが、そのTVが普通の状態ではなかったのである。

TVの画面下部に一直線にガムテープが貼ってあったのだ。

 

 

こんな風に。

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私は故障でもしているのかな?と思い、軽い気持ちで、本当に軽い気持ちで尋ねた。

「何でガムテープ貼ってあるの?壊れてるの?」

 

まさかこれがとんでもないパンドラの箱だとは露知らず…

 

U太くんは真顔で答えた。

 

 

 

 

 

「ああ、あれ?アニメのOPの歌詞見ないで歌う為だよ」

 

 

 

 

 

 

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おわかりになっただろうか?

そうなのだ。

馬鹿なのは私だったのだ。

あの位置のガムテープに「アニメのOPの歌詞を隠す」以外の用途などあるだろうか?いやない。

「わからされた」という思いだった。

まさか齢13にして真の天才の存在を知ることになろうとは。

 

その後のことはこの衝撃が大きすぎてよく覚えていないが、

しばらくしてU太くんが「ジャイロボールを投げられるようになった(※U太くんはバスケ部)」と言っているのを聞いたので、たぶんU太くんはジャイロボールも投げられるし、MAJORのOPも完璧に歌えるようになったんだろうなあ、と一人で得心していた。

 

 

滑らない話、終わり。

儚げな少女に消えられたい

儚いものに惹かれる。

恒常的、永久的にそこに存在し続ける安定したものよりも、いつ消えてしまうのかと心配になるような不安定なものこそを愛でたい、と思っている。

春の終わり、桜木に残った最後のひとひらのような

冬の朝、水面に張った脆く薄い氷のような

 

そういった刹那的な存在に価値を見出したい。

これは日本人としてそれほど珍しい趣向ではないはずだ。

華は散るからこそに美しい、とはまさに至言である。

 

さて、ものだけでなく、人を評する際にも「儚げな」と表現することがある。

こういった場合、大抵ポジティブな意味ととって間違いないだろう。

儚げな人…儚げな少女…といった具合だ。

特に深く考えずとも、「儚げな少女」と聞いて、私も胸が躍る。端的に言って好きだ。

では、儚げな少女とはいったいどんな少女なのだろうか。

儚げな、という形容詞を冠するに値する名詞というのは多くはない。

ここで私は、儚げであるからには少女でなくては成立しないのではないか。と閃いた。

しかも美少女でなくてはならないのでは、と。

つまりだ。

 

「儚げなブス」と聞いて納得ができるか

である。

 

私はできない。この理不尽に断固抗議する。

こんな見事な相殺がこの世にあっていいのかと。

皆さんもぜひ試しに声に出して「儚げなブス」と言ってみて欲しい。

口が楽しくなるくらいには違和感しかないはずだ。

当然である。儚げなブスなど存在しえないのだから。

 

儚げな美少女は不安定である。今にもその白く細い足の先から、透けて消えてしまうのではないかとこちらをハラハラさせる。彼女はいつも伏し目がちで、なかなか顔を上げてはくれない。しかし私は既に知っている。本当はその瞳が、この世界の何よりも美しく、何よりも無垢であることを。

 

一方、そこでブスはというと、

しっかりとその足で大地を踏みしめ、こちらを見据えている。

揺らぐ様子は微塵もない、見事な仁王立ちである。

同じく仁王立ちで有名な、かの武蔵坊弁慶は99本の刀を携えたというが、ブスはその圧倒的な存在感という名のドラゴン殺しただ一本を構えてそこに起立している。

 

「ああ、ブスがいるな」と。この2つの網膜に、鼓膜に、過剰に訴えてくる。

皆さんも日々の生活の中で、空気の震えや風の音からブスの気配を感じ取った経験は少なくないはずだ。

ブスは存在が現実的すぎるのだ。

もし人間の存在に対してWordやexcelの図形の透過性のようなパラメーターがあるとしたら、ブスの透過性は文句なしの0%だろう。

 

よって儚げなブスなどありえないと結論する。

そして、私はブスの話がしたかったのではない。

頼むから儚げな美少女の話をさせてくれ。

 

私は儚げな少女にある日突然、消えられたい。

日々の暮らしの中で、彼女の笑顔、彼女の楽しげな声を聞けば、もちろん私も嬉しくなる。良かった、彼女と時間を共有できて本当に幸せだなと感じる。

しかし、それとほぼ同時に不安にも駆られるのだ。

なぜだか理由はわからないが、この子はいつか消えてなくなってしまう気がする、と。この世界に彼女がいた証拠全てと一緒に、ある日忽然といなくなってしまう気がすると。浮世離れした、どこか現実感のない彼女の横顔を見るたびに、幸せという名の積み木を積めば積むほど、私は一人、それが崩れる瞬間を思って焦燥感を抱くのだ。

 

消えるシチュエーションだが、個人的に理想はある。

 

 

ある夏の日、二人は手を繋ぎ、いつもの道を歩いていた。

すると突然、太陽が燦燦と照りつけているというのに、バケツをひっくり返したような夕立に見舞われる。

この夏の、全てを洗い流そうとするかのようなそれに目を奪われて立ち止まるが、ふと気が付くと隣にいたはずの彼女がいない。驚いて辺りを見渡すと自分の後ろ、10mほど離れた場所になぜか彼女は立っていた。

何が起きたのか理解できず、すぐさま彼女に駆け寄ろうとする。しかし彼女は叫ぶのだ。

「来ては駄目」と。

その声に驚いて足を止める。彼女は笑顔とも泣き顔ともつかない表情で俺を見る。

依然として、青空からは夕立が降り注ぐ。むしろどんどん強くなっていく。

彼女が何かを言っているが、聞き取れない。それは雨音のせいなのか、はたまたもう声は出ていないのか。

俺も必死に叫ぶが彼女の耳には届いていない。

そして彼女が最後に微笑むと、夕立があがり、それとともに彼女は消えていた。

 

私の中で、儚げな美少女は世界から消えることで、真に儚げな美少女として完成するのだから、この別れは必然だ。

ずっと、いつかこの日が来るのではないかと不安だった。

覚悟はできている。と、自分を過大評価していた。涙はひとつも止まらなかった。

その年の一番暑い、夏の日の午後のことだった。

 

 

これが夕立式の全容である。興奮で一人称が変わってしまった。

頭がおかしいのでは?と不安に思った方には申し訳ないがその通りである。

ちなみに、このシチュエーションは奥華子の「夕立」という曲が元ネタとなっているので、是非聴いてほしい。

自分はこの曲を聴くたびにこんな妄想をしては涙を流している。

 

現在、儚げな美少女はいまだ私の前に現れてくれないが、きっといつか、見つけてみせる。

儚げで、病弱で、白い肌に細い首筋、白い髪は艶やかで、瞳はガラス細工と見紛うほど美しく。笑顔は素敵だが、どこか現実感が欠如している。そんな美少女を。

 

何を馬鹿なことを、と思った方。

今は無粋な物言いは止めにしようではないか。

 

いという字がどうなりたっているかは、誰の目にも明らかなのだから。

 

笑顔の話

笑顔とは素晴らしいもので、自分も良く笑う人が好きだ。

良く笑う人の周りにはおのずと人が集まり、やがてそれらも等しく笑顔となる。

笑顔の輪は広がり続け、やがて世界へ。

世界進出した笑顔はsmileへと進化し更にはsourireやLächelnとなり国境を超える。

永遠に続くかと思われた戦火はここに潰えたのだ。地球に敷かれた目には見えない傷跡は癒え、この惑星(ほし)は本当の意味で完全なる円となった。

 

これは皆さんも良く知っている今日までの笑顔が世界を救った歴史を簡単におさらいしたものだが、この過程の一場面を収めた貴重な映像が残っていることを皆さんはご存じだろうか。

 

それは意外にもとある国民的テレビアニメの一場面として収められていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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そう。ポケットモンスター、略してポケモンである。

誰もが知っている世界的コンテンツであり、現在もポケモンGOの登場によりその人気は留まるところを知らない。

そんなポケモンに笑顔ロードの軌跡が?

全くもって予想外だ。

 

 

 

しかし確かに、それは1997年9月9日放送のTVアニメポケットモンスター第24話に収められていたのである。

1997年9月、笑顔による天下統一は志半ばで日本の一部の地方を笑顔にしただけに留まっていた。

日本全土を笑顔にしたいという想いを胸にスマイル・マスターを目指して旅を続けていた芸人のサトシ一向はカント―最大の都市であるヤマブキシティを訪れる。

サトシは今回のジム戦でも絶対に笑わせてやるという信念のもと、手持ち最大のピン芸人であるゴーストを擁して戦いの舞台へと望む。

 

そして対するヤマブキジム ジムリーダーのナツメさんはこちら

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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笑顔/zero

全く笑っていないではないか。

鉄面皮とはポケモン視聴者が考えた言葉だったのか。

 

 


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これにはさすがのゴースト師匠も考えてしまう。

 

まぁここからなんやかんやあるのだがそこは割愛して物語は急速なクライマックスを迎える。

 

 

 

 

 

 

 


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おわかりになるだろうか?

画像から伝わるこの

なんとゴースト師匠、全く笑ってくれないナツメさんに対して爆発オチを仕掛けようとしている。いくらなんでも力技である。

このご時世にそんな古典的な方法で人が笑うわけな

 

 

 

 

 

 

 


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遅かった………………

聡明な皆さんなら薄々気がついてると思うが、人はあの距離で爆弾の爆発に巻き込まれれば漏れなく死ぬ。

あのアホゴーストポケモンは人体の仕組みから勉強して出直してほしいものである。

……?

…………??

……………………!?

あれは……!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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皆さんは、「世界平和」とは何かをその目で見たことがあるだろうか。

もし、見たことがないのなら、今、ここで、それを目にしたことになるだろう。

 

可視化された世界平和

人のカタチをした光

何よりも尊いソレ

 


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ナツメさんの笑顔である。

 

本当に良かった。本当に。

世界が笑顔に包まれるまでの、その軌跡。

ポケモンの1ストーリーとして存在しているということをここに証明できた。

 

それではまた、笑顔あるところでお会いしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナツメほんとすき

 

 

神無月の話

気付けば10月。

生まれてこの方、関東平野に肩までどっぷり浸かっていた私が、関西の山あいにやって来て丁度半年がたった。

仕事はそれなり。

趣味もそれなり。だが、それについては人と人の繋がり方とは斯くも面白いな、と膝を打っている。

自分の趣味はゲームにしても、音楽にしても、人付き合いがしやすいなぁと感謝することがままあるのだ。

理由はいくつかあるだろうが、一番は同好の士が集まる場所、人と人が親しくなるまでのインフラ整備が行き届いていることか。
特に昨今の現状を鑑みてゲームセンターはそれが顕著だ。対面に座って対戦した時点で、一言も言葉を交わしていなくても「ネット対戦が気軽にできて、寝間着で寝起きのアホ面でも世界中の誰かと対戦できるこの時代に、自ら街のゲームセンターに足を運んで100円を入れて、向かい合った相手と対戦したい…熱い男じゃねぇかよ…気に入ったぜオメェ…」
までは意思の疎通が完了している。

いや言いすぎか。私はゲーセンが大好きなのだ。

しかし、仲良くなるまでにきちんと手すりがついているのは本当で、バンドをしていても格ゲーをやっていてもそうなのだが、一言目を交わす以前に相手のパフォーマンスや趣向を先に見る機会が比較的多い。こういうプレイをしていて、あそこの場面での展開はああだったなぁだとか、前情報でスタート地点の話題を提供してくれている。

ライブなら演者の足元を見ただけで飲み会での話題は膨らむし、むしろ格ゲーなんてボタンを押すか押さないかだけでも先に相当量の会話を画面内でしているのだから最早初対面の定義が壊れる。人付き合いが苦手でもがっちりサポートしてくれる安心コースだ。

お見合いの決まり文句で「ご趣味は何を?」というのがあるが、この過程を見事に吹っ飛ばしている。ご趣味は今お前とプレイしたゲームだ。

「ご趣味は何を…?」ではなく「直ガ空投げマジで上手いっすね…」と入ることができる。情報量の差が半端ではないし、それこそ前者は会話において「牽制」なのに対して、後者は明らかに目の前まで走ってきて投げている。その後の会話も「投げ間合い」で弾むこと請け合いだろう。
対戦してからお見合いの席を設けるスタイルの格ゲーマーお見合いをビジネスとしてやっていきたい人がいたら、私も一枚噛ませてほしいのでご一報ください。


そんなこんなで、自分も関西に越してきて程なくして、格ゲーとゲーセンのおかげで有難くも楽しく人と繋がれている。感謝しかない。


気付けば、10月。
全国津々浦々の八百万の神々も1年ぶりに出雲大社に集う。
八百万もいるのだから、きっと彼らも未だに初対面の神がいるはずだ。

その時は彼らも「最近なかなか地元の信仰がねぇ…」
と、神様同士前提トークによって、その輪を広げていくのかもしれない。

風情厨とかいうパワーワードで殴られた話

だいぶ前の話になる。

なので、詳細な事の起こりはほとんど覚えていない。

たしか旅行の計画を立てている時だったか。

自分が「静かな旅館で美しい景観を愉しみながら美味しい料理と酒を頂ければ良い」といったような提案をした際、唐突に「あんた風情厨なところあるよね」と認定された。

意味不明の新語だが発言者によると「風情あるシチュエーションが好きでそれに酔うところがある」といったニュアンスらしい。

私はこの発言に対し、こいつは悪鬼羅刹か何かの類か?と震えた。

つまりである。

私はその時、せっかくの旅行なのだからと思い、意識をして風情ある、雰囲気がいいと言い換えてもいいが、そういったシチュエーションを提案していたわけだ。

それに対して「お前風情厨やな~」と言われてみた時の事を想像してみて欲しい。

果たして、怒り以外の感情が残るだろうか?

「お前それなら家でお湯沸かして一平ちゃん食って氷結で乾杯でもいいか?」と言わざる負えないだろう。

きっとそう言ったならば経験上相手は「お前はいつも話が極端なんだよ」と言うに決まっているのだが、そう。風情なんてものは無くそうと思えば無尽蔵に無くせるのだ。

逆に風情を演出しようとすれば大概の人間は背伸びになる。

ましてや一介の大学生である。頑張って相手に喜んで欲しくてする精一杯の背伸びだ。可愛いものだろう。

それを一蹴する「風情厨」というワードの慈悲無き響きは私の心象風景を荒涼へと変えた。

 

それからというもの私は日々、風情厨というパワーワードの影に怯えることとなる。

会話の中で私の大好きな夏、夜、浴衣、旅館、花火、風鈴、灯篭、というようなパーツを紛れ込ませた瞬間、そこには風情厨認定が首をユラリともたげてくる。すぐそこで大きく口を開いて私が同じ轍を踏むのを今か今かと待ち構えている。その姿はさながら獲物を待つウツボカズラだ。

しかし、それを回避する手段すらも私は既に知っていた。決してやられているばかりではないのだ。その手で未来を勝ち取れ。風情厨認定されずに相手を絶対にがっかりさせない手段がそこにある。

 

今度ランドいかね?」

 

これである。風情の欠片もないかつ力強い。

風情を捨て、巨大なエンターテインメント性の傀儡へと身を窶す格好だ。

私が「風情厨」ならば敵もまた「テーマパーク厨」だったというわけだ。

風情厨VSテーマパーク厨の天下分け目の関ヶ原である。

キャラメルポップコーンの香りを纏った女子大生など全員まとめてプーさんのハニーハントにでもぶち込んでおけばよい。

シーとの二択を迫ることで的を絞らせない択の多さもまた魅力的だ。

しかしランドに行ったら行ったで問題はある。

 

「クソ楽しい」

これに尽きるだろう。

相手は百戦錬磨のテーマパーク界の絶対王者である。一介の大学生など片手でハッピーにさせられ、夜には満足感と心地よい疲労感を抱いてゲートを抜けさせられること必至だ。

舞浜駅までの道すがら、二人はあーだこーだと一日の素晴らしい思い出を語るのだ。

私が謳う風情などランドの持つその圧倒的なエンターテインメント性の前に粉々に砕かれることだろう。

 

それはそれとして。

 

私は自らが風情厨だということを恥じることはない。

先の駄文でも触れたが、日本の四季や情緒を愛でることは素晴らしいと思っているし、それを言葉にもしたい。シチュエーション先行でイベントを考える節が多々あるが、本当にそういった風流めいたものが好きなのだ。

 

ちなみに言質はとっていて風情厨認定委員会の会長も「風情厨かそうでないかで言えば風情厨の方が良い働きをすることもある」とのことだ。

 

いつかは完璧な風情を演出し、風情厨から風情王へのランクアップを認めてもらいたいと思っている。

 

『君の名は。』の話

 

※ネタバレ有

 

数々の感想や批評ブログが既にある中で、もう今更自分が感想をブログにすることもないかと思ったが、一応自分の中でのこの作品の位置づけを確認する為にも文字に起こすことにした。

あらすじや細かいことは書かずにすっ飛ばして思ったこと、感じたことだけを書く。

 

私は、創作物と相対した時、その作品が持つファンタジー要素やSF部分はとにかく「楽しく」エンターテインメントとして受け取れれば満足で、それとは別に物語全体が持つ主題、普遍的なテーマこそを汲み取りたい、と思っている。

ジャンプでいうところの「友情」「努力」「勝利」である。

主題という骨の周りに実った肉ももちろん大好きだが、最終的にはその骨からとれる出汁こそを味わいたい。

なので、逆に言えばそれが汲み取れない、汲み取りづらい作品は苦手である。

 そういった趣向があるので、まず君の名は。は好きな作品だった。

双方の入れ替わりや時間のズレや彗星落下といった要素、それらに散りばめられた複線の妙、言わずもがなの映像美、BGMとして終わらず、映像と渾然一体となったRADの楽曲。どれもエンターテインメントとして良質なものだった。最高に楽しかった。

 

その賑やかしに味付けされた中で、私が作品の持つ普遍的な主題として汲み取ったのは「人の縁」そして「誰かと出会うということの奇跡」である。

 

「人の縁」は作中だとムスビと言い換えられているが、主人公二人の間以外にも作品のターニングポイントでこのムスビがなければ事が進まなかった場面は多い。

ラーメン屋の店主が糸守生まれだったのはまさに最高のムスビだったし、最後に避難訓練ができたのも、結局は親子のムスビがあったからだ。

人と人との繋がりが結ばれて円(縁)となって世界を動かす。世界を変えていく。作品全体を通してそのエネルギーに満ちていたと思う。

 

そしてそれと関連して「誰かと出会うことの奇跡」

月並みではあるが、これこそがこの作品が持つ最高に普遍的なテーマだと私は思うのだ。

何が言いたいかというと「別に入れ替わりもなく、彗星なんて欠片も落ちてこず、三葉は普通に高校を卒業して上京し、何の伏線も踏まず、東京で就活中の瀧くんと出逢った」として、それを誰が作中の二人の再会と比べて劣ると言えるだろうか。

それも等しく素晴らしい出逢いのはずだ。

それに二人の記憶はほぼ残っていないのだから限りなくこの状況に近い。

田舎の一人の女子高生と東京の一人の男子高校生が出会うことのムスビ。

そこには何の創作も、ファンタジーも介在しない。普遍的な奇跡。

私達の現実で、明日、誰かと出会うことの奇跡と何ら変わりはない。

 この作品はその誰にでも起こりうる「奇跡の瞬間」に辿り着くまでの道のりを、現実よりも少し楽しく、美しく、ドラマティックに、可視化したに過ぎないのだ。

 

きっと細かい疑問を指摘したブログや考察も多いとは思うが、ここではそれはしない。

最も届けたい物の為に切り捨てられたものもあるはずだ。

 

良い作品に出会えた。

これもまたムスビ。

初めて出逢う人には今までの人生と何ら変わらず、名前を尋ねるところから始めようと思う。

誤字の話

私は現在、会社の社員寮に住んでいる。寮の玄関は共通で、ちょうど公民館のようなイメージだ。

この玄関横には黒板が設置されており、管理人さんからのお知らせやら張り紙やらを掲示するようになっている。

7月の初めくらいに、そこにこのような文章が手書きで書かれていた。

 

「○○号室の方、深夜の軽体うるさいです!」

 

意味は、わかる。

人間は多少の齟齬はあっても文脈から真意を汲み取れる優れた生き物なのだ。

この時私は「怒って殴り書きしているし、きっと勢いに任せて誤字ってしまったのだろう」と自分を納得させてその場を後にした。

 

そして昨日、ふとその黒板を見ると

 

「○○号室の方、深夜の軽体うるさいです!!」

 

また書いてあった。

!が一つ増えていた。

いやそんなことはどうでもいいし、ましてや○○号室の方が二か月の時を経てほとぼりが冷めたからまたやっちゃたんだろうなというのも私にとっては更にどうでもいい。

 

軽体。

軽体….。

 

いや携帯だろ!

 

ここで「ただの誤字にそんな目くじらたてなくても…」と思った方。

あなたは正しい。そんな他人の些細な誤字などにいちいち引っかかっていたら、このストレスまみれの現代社会では命がいくらあっても足りないだろう。

 けれども、自分はこういうどうでもいいことに引っかかってしまう面倒な性格なのである。ストレス社会とチキンレースを演じてしまう悪癖がある。許してほしい。

 

まず勝手に誤字だと決めつけるのも良くないので少し調べてみることにした。

軽体とは。一発では変換できない。

こんな言葉があるのだろうか。私が知らないだけでは?と自分の浅学を疑い辞書で引いてみてもそんな熟語は存在しなかった。

 

では略語か?

「○○号室の方、深夜の軽量体重計うるさいです!!」

 ○○号室にそんなにぎやかな体重計はないだろう。

 

百歩譲って、軽体...軽い体。軽量ボディ...ゆえに携帯電話を連想させる...と解釈したとしても... 

やはりこの「軽体」はどうあがいても「携帯」の誤字ということなのだ。

 この事実がキツイ。ここで自分は頭痛がしてしまう。

「携帯」というとてつもなく一般化した携帯電話の略を「軽体」と誤字するに至るバックボーンなどを考えて勝手に頭を痛くしてしまう。「怖い」とすら感じてしまう。

単純な話で「携帯」という二文字、これを書こうと思った時、とっさに出てこないこともあるかもしれない。

それこそ今は携帯で一発変換できてしまう時代だ。実際に書こうとしたらとっさに漢字が浮かんでこないなんてことは良くある。

そんな時どうするか。私ならば「ケータイ」と書く。もしくは本末転倒感があるが携帯で調べて書く。

掲示板という不特定多数に見られる場所に書くのだ。誤字は恥ずかしいしそれくらいの行動を挟んでもなんら問題はないだろう。

 

なのに、この人は二回も続けて「軽体」の二文字を民衆へと掲げた。それはもう誇らしげに。

恐らく、この人の中では「けいたいでんわ」は完全に「軽体」なのだ。

 

これに私は恐怖するわけだ。

どんな人生を歩んで来たのだろう。どんな教育を受け、どんな仕事に就き、様々な人と出会って、誰かを好きになって、嫌いになって、世界の美しさと残酷さ、喜びと悲しみ、清濁併せて飲み込んで、

 

 

そしてその先で「軽体」と誤字ってしまったのだろうか。

彼の歩みが、彼の選択が、「携帯」を「軽体」に変えてしまったのだろうか。

 

私程度の矮小な人生ではとても推し量れない。

私程度のつまらない人生では「携帯」はどこまで行っても「携帯」のままだ。

 

 おもしろき こともなき世におもしろく すみなしものは心なりけり

幕末の志士 高杉晋作の辞世の句だ。

 

自分はいささか勝手におもしろくしすぎな気がしないでもない。