おーじの覚書

忘れちまった事、忘れらんねぇ事

俺は、儚げな少女に消えられたいという話~完結編~

あれほど恋焦がれた平成最後の8月も、未だ照りつけるその残り火を最期に、ゆるやかに幕を閉じようとしている。

今年は旅行にも2回ほど行けた。三重と大阪だ。

例年から比べると大きな進歩であり、社会人3年目にして夏季休暇の使い方も多少小慣れてきたのかもしれない。

個人的にこの夏で一番おかしかった出来事は、伊勢神宮にお参りに行った際に、私がしきりに「あのパオ~~~~プアァ~~~~みたいな笛?はいつ聴こえてくるの?」と周囲に訪ねていたことだ。

当然みんな「?????」みたいな顔をしていたわけだが、私は追い打ち(己のアホさに)をかけるように

「知らんか?あのBASARAの毛利のステージで鳴ってたやつ。」

などとのたまってしまった。これがワードウルフなら一発で吊られていただろう。

最も良くなかったのは、そこまで言っても誰もこの違和感の正体にハッキリとツッコんではくれなかったことだ。お前ら、もっと勉強してくれよな。

 そのせいで、私はお伊勢参りを完遂するまで一人でずっと「パオ~~~は?」「あの海の…赤い鳥居はどこ?」「プァ~~~~」などと期待し、その全てが登場せず勝手に肩透かしを食らった気になっていた。不敬なお参りにも程がある。

 それでも旅行自体は楽しかったので、特に気にもせず満足感と赤福をちゃっかり携えて帰路についた。

新幹線で一人になり、つかの間の寂しさに浸りつつ旅の思い出を振り返っている途中、ふと思い至って全てが繋がり、思わず零れた。

 「いやそれ厳島神社だわ(パォ~~~~)(※正解の音)」

 

全くの余談だが、伊勢神宮でお参りした帰りに、「人差し指と中指でぎこちなく手を繋ぎ、触れては離れる薬指」といったテイストの女の子二人とすれ違った。無神論者を卒業した。

伊勢神宮、確実に力ありますね。(私は厳島神社にお参りした気分でいたので厳島神社の力も幾ばくか含まれている。)

 

 

閑話休題

ひと夏を越え、日常風景で変わったことが少しだけあった。

会社帰りのあのサークルKがいつのまにか、やっぱりファミマになっていた。

円卓赤橙の戦士は斃れ、家族(ファミリー)になったのだ。

今は気兼ねなくファミチキを頼んでいる。長いものに巻かれよ。うまいし。

 つまりだ。

特にこれといって何も変わっていないのである。

ファミチキ先輩の介入程度では、私の人生の起伏までは変えられないらしい。

すると、例によって今年も望んでしまう。

「儚げな美少女に、ある日突然消えられたい」

これである。

しかし、今年の私は例年とは一味違う。

より鋭い視点、切り口からこの願望を見つめているのだ。

「儚げな美少女に、突然消えられたい」という性癖をこじらせてはや幾星霜。

遂に、この性癖の致命的な欠陥を抽出することに成功した。

それこそが

「消えてもらうためには、まず現れてもらう必要がある」

という問題である。

人間も、生まれなければ、死ぬことはできない。

儚げな少女も同じだ。浮世離れした雪の肌に薄い唇を添えて、この世に存在していただかなければ、消えてもらうことは叶わない。

「消えられてぇ…消えられて吐くほど泣きてぇ…」という醜い願望が先走りすぎて、最初のステップを飛ばしてしまっていたのだ。

しかし、どう頭を捻っても、理想の儚げな美少女を目の前に現界させる術は思いつかない。

問題抽出を終え、視界を覆っていた霧が晴れてようやく、この性癖の難しさのディテールを把握してしまった。

無理じゃん。いないもん、儚げな美少女。いすぎるもん、存在感のあるブス

 

「詰み」の二文字がこの身に重くのしかかる。

だが。いや、やはり、というべきか。夏の魔物は思考を狂わせ、増長させる。

脳内の情報処理に負荷をかけ、オーバードライブ。正答(こたえ)を掴んだ。

今まで少女を現界させるというファーストステップを飛ばして「消えられたい」というセカンドステップ的欲望を抱いていたのだから、今度は私自身がステップを飛ばして「そこ」に上がればよいのだ。並び立ち、追い抜けばよいのだ。

「悪ぃけど俺…””次””のステージに上がらせてもらうよ」

 

 

 

 

 

彼女が消えて、数日がたった。

いや、それは本当に彼女だったのか?

それどころか人であったのかすら、自信がなくなっていた。

ひと夏の間、涼しげで、儚げで、それでいて暖かい何かが傍らにいたような気がする。

気がする、だけ。記憶に靄がかかっている。まるで他人事のような、物語を読み聞かされていたような、そんな感覚。

 今でも。

油断すると、コンビニで2人分のおにぎりを買ってしまう。

洗面台の歯ブラシは、知らないうちに2本目が卸されていた。

帰宅して家の玄関を開けた時、並んだ靴の数がやけに寂しく感じる。

生活の中の意識の外で、形のない面影が顔を出す。

「頭おかしいよな、こんなの」

苦笑しつつも、別段怖いという感情はなかった。

無意識下に残る、顔も声も思い出せない誰かの名残は、心地よくて、とても柔らかで。

1日、1日、確実にそれにまつわる記憶は薄れていく。

きっとこのままいけば、秋の足音を待たずに全て消えてなくなるだろう。

夏の恋。その何もかもを洗い流す夕立は、もう既に、ぽつりぽつりと降り始めている。

 

 

 

 

これが、私の辿り着いた答え。儚げな少女を追い越し、次のステージへと至った男の姿。

「俺自身が、儚げな少女に消えられた後の世界で暮らす記憶を失った男になればいい」

 

少女の出現、それすなわち起承転結のスタートである"起こり"。

そこから先に進めずに足踏みしていたのが間違いだったのだ。

時を跳躍。筆は走り、物語の針が動き出す。私は自らの視点を変えることで、力尽くで"結び"へと至った。

完全なる上位存在。無欠の論理の上に仁王立ち。2018年の武蔵坊弁慶は俺でキマリ。

8月30日現在、私に儚げな少女とのひと夏の記憶はまるでない。

仕方がない。全て消えてしまったのだから。ここはもう、終わってしまった世界なのだ。

夏の思い出まるごと全部、彼女が一緒に連れて行ってしまったから。

私にも、他の誰の記憶にも、その少女がいた風景は残っていない。

無の証明は、できない故に。

10秒前、悪魔が世界を創ったことを否定できない故に。

誰の記憶にも残らずに消えた儚げな少女がいたことを、誰も否定することはできないのだ。

「儚げな美少女に、消えられたい」願望、ここに一つの終着を見た。

平成に、宿題を残さなくて本当に良かった。ありがとう。

今日も、なぜかはわからないけれど、いつものファミマで2人分のファミチキを買って帰ろう。

たった独りの、晩夏の夕餉。茜色のどこかで鳴いたひぐらしが、食卓にひとつまみの寂しさを添えていた。

 

空気を読んでくれという話

「完全にインフルエンザだ」と思った。

体温計には39.5℃とかいう久しく見ていなかった数字が表示されていたし、関節の痛みは高2の時にインフルエンザにかかって泣きながら文化祭を欠席した時のそれを軽く越えていた。

 朝の時点でその状態ならば迷うことなく会社を休んだのだが、あいにく症状が出たのは出勤して3時間ほどが経過した頃であり、意図せずしてオフィスは多勢の健康人間と無勢のリビングデッドという様相を呈することとなった。

 もう、凄まじい帰りたさである。帰宅に狂う獣。

すぐにでも冷えピタをおでこに貼って、体内の水分が全て入れ替わるくらい多量のポカリを飲んで汗をかきたかった。何より、このまま起きていたくなかった。死んでしまうからである。

 だが、私にはすぐに

「熱、ヤバめなんで帰っていいすか?」

と上司に言い出せない理由があった。

なんと、先週も普通に風邪をひいて普通に2日間会社を休んでいたのである。

その時はあまり熱も高くなかったのでdアニメストアで普通にゆるキャン△を見ながらカップヌードル(カレー)を食べていたのである。

普通に、言い出しにくい。

体調管理も社会人の仕事という、手垢まみれで雑菌だらけの言葉がまさにウイルスのごとく私の心を侵食する。されどその言葉は冷たくも、正しい。

安定した労働力を提供する代わりに、私たちは安定した給金を得ている。

システムに組み込まれた装置に、温情は無用である。

想定した動きをしない装置に、報酬は無用である。

 

社会不適合者

 

日本語レッテル界隈でも素人童貞に並ぶパワーを有する強靭なレッテルが頭をよぎり、痛む関節がいっそうきしんだ。

恐怖に震える私は、切り出せずに黙々と、朦朧と、キーボードをたたき続ける。

震える指先が、いつの間にか、insertに触れる。

上書きされていく文章。書替えられていく”それまで”。挿入したかった文章に全てが塗りつぶされていった。"終焉"を痛感する。

その頃には、私の思考はどんどん沼へ、沼へとシフトしていった。

 

『めっちゃしんどそうに仕事して、上司の方に察してもらおう。』

 

日本人のよくない部分が、ハジけた。

俯きながら、時折、碇ゲンドウのようにデスクに肘をついて手を組み、大きなため息をつく。

さぁ、察して見せろ。得意だろ。空気読むの。

『空気を読む』という曖昧模糊なスキルを以て、お前たちはこの経済大国を今日まで回してきたんだろう。見せ場だぞ。お前の声掛け一つで救える命がある。

英雄になりたくはないか?俺は死にたくない。

呼吸は荒い。実際本当に苦しくて気絶寸前なので、演技ではないところがまたこのプランのスマートな部分でもある。

 

はやくしてくれ….限界を感じデスクにうずくまる私を遂に上司が一瞥、口を開いた。

 

「眠いんかぁ?」

 

違う。怪訝な顔をするな。絶妙に心証が悪くなっていそうな間違い方をやめろ。

いや、体調不良でも心証はよくなさそうだが、眠いだけじゃ帰れないし、病院にも行けないじゃないですか。

 もう、流石に限界だった。既に1時間近くしんどそうに仕事をしてしまった。

言うしかない。途絶えそうな意識の中、決意を固めた。

 

「いや…実は朝から熱が39.8℃あって…」

 

0.3℃盛った。理由はわからない。

恐らく、命の瀬戸際に至って私の矮小な部分がコンニチハしたのだと思う。

39.5℃も39.8℃も高熱だし、さして変わりはないのだが、無意識下でより帰れる確率の高い数字を口走ったのだろう。書いていて悲しくなる自己分析。

 

すると上司は言った。

「そんなんはよ言わなアカンやろ。もう帰りな。」

 

 〜〜〜〜〜〜〜〜

 

「「言わなくても、わかるだろ」」

「「言葉にしてくれなきゃ、わかんないよ」」

唇を合わせ、体を重ねた恋人同士でさえ、互いのコミュニケーション上で怠惰や驕りが生じれば簡単に瓦解するというのに。私はいったい、唇も、体も許していない上司に何を期待していたのだろうか。

君と僕とを繋ぐ距離。5Mよりも、まだ遠い。

言わなきゃ、想いは伝わらない。

ありがとう、大切なことを思い出させてくれて。

じゃ俺、病院行くね。

 

 

かくして、私は早退した。

 病院に着き、看護師さんに病状を伝える。

 

「熱がめっちゃ高くて、悪寒がやばくて、それで関節がめっちゃ痛くて、予防接種とかめっちゃ受けてなくて、めっちゃインフルかなって思うんですけど…インフルですよね…?」

 

大学受験の折、どんな現代文の過去問を解いても満点を取っていた時期に

「世界が、俺がマークした記号を後から正解にしている。」

「作者の気持ちとかオカルト言ってる奴は甘え。正解は問題用紙の文章内に書いてあるのだから、正答して当然。現代文は理詰め」

「行間に住んでるから」

などとイキり散らかしていた人間が紡いだ日本語とは思えなかった。

 

看護師さんは言う。

「うーん、たぶんインフルエンザっぽいですねぇ。」

最高。「たぶん」「っぽい」にサンドされた言葉の信憑性のなさは折り紙つきだが、肯定してくれる存在こそまさに今の私にとっては白衣の天使だった。

 

そして、無事に例の「鼻をグリグリされるやつ」を食らい、粘膜を採取される。

弱りに弱っているので、鼻をグリグリされただけで「他殺か?」とも思ったが、なんとか一命は取り留めた。

 

そして待つこと数分。検査結果が出たので病室に呼ばれた。

 

流行時期、高熱、悪寒、関節の痛み...

 

看護師さんの「たぶんインフルっぽいですねぇ」という所感。

 

美しい。状況は整った。あとは医師が最後のピースを埋めるだけだ。

長かった。やっと、楽になれる。さぁ、甘い最期をくれ。俺は出社禁止を手に入れる。

 

 

 

あー、反応でませんでした。インフルじゃないですね!大丈夫です」

 

いや空気読みすぎだろ。流れを察するな。

(もらった解熱剤飲んだらフリーフォールか?と思うくらい熱が下がりました)

 

 

最近モンハンしかしてないの話

最近、モンハンばかりしている。

このブログでは普段プレイしているゲームのことなどは極力書かないのだが、あまりにもモンハンばかりしていたのでそれ以外に書くことがなくなってしまった。

ネタの枯渇という大敵に半強制的に書かされている格好だ。

 

まず、ストレートな感想としてこのゲーム、楽しい。

睡眠時間、ソーシャルゲーム(FGO)、なんだかボーっと動画を見ている時間、などなど。

限られた平日の自由時間、モンハンの為に席を譲って消えた彼らに敬意と弔いを送りたい。

楽しい時間は、また別の楽しい時間によって取って代わられたのだ。

 

しかし、である。

しかし、私が初めにMHWのPVを見て想像した「楽しい」と今毎晩のように享受している「楽しい」は結局のところ、種類の違う体験だったのだな、というのが今回の話。

 

モンスターハンターワールド。間違いなく、歴代でも最高にクールなハンティングアクション体験の一つだと思う。(こういう雰囲気の海外レビューサイトの翻訳、大好き)

 

私はMHWが発表された時、その映像から伝わってくる「狩場の生命力」めいたものにわくわくした。

色とりどりで高低差を孕んだステージ、キュートな環境生物を下地に、生きたモンスター達が手ずから積み上げる自然界のヒエラルキー。従来よりも物語性に重きをおいたゲーム進行とそれを飾る活き活きとしたキャラクター。そのどれもがモンスターハンターを「ただのゲームプレイ」から「感動体験」へと昇華してくれるパワーを感じた。

早くこの世界観に頭までどっぷり浸かりたいと、そう思った。

 

そして、実際発売されたMHWは、正しくそのパワーを内包していた素晴らしいゲームだったのである。全世界出荷本数600万本突破、おめでとうございます。

 

問題があったのは私のプレイスタイルの方だった。

基本的に、マルチプレイしかしないのだ。通話しながらしかプレイしないのだ。

人が釣れないならばアケコンを持ち出してしまう。

一人だと寂しくて、モニターに向かって据え置きのゲームができない。

そんなウサギの化身たる私に、MHWの世界観を味わうという時間の使い方、余裕はなかったのである。

100時間の狩猟生活の果て、私の中に最も色濃く残っているプレイフィールは、美麗な映像でも勇壮なBGMでもない。

オタクの笑い声と叫び声である。

オタクはうるさければ口も悪い。

いくら高級耳栓でも、オタクの咆哮を防いではくれない。

濃密な狩場の雰囲気も、巨大なモンスターの脅威も、

「はぁああああああ?!」「は?」

の二つにかき消されていく。

オタクの鳴き声木霊する夜は、今日もそうして更けていく。

私が期待に胸ふくらませていた感動体験、こんなはずでは。

 

と嘆きながらも、結局私が今享受している「楽しい」はゲームの中身そのものではなく、まさしくこっちの類の「楽しい」なのだ。

「学校から帰って来て友達と遊ぶの、死ぬほど楽しくね?」という文脈に連なる、呆れるほど普遍的なエッセンスだ。

対戦型の対人ゲームしか続かなくなってしまった私が、AIで管理されたモンスターと飽きずに戦い続けることができるのは傍らにオタク(友達)がいるからに他ならない。

ただし、繰り返しの協力プレイが楽しいことは間違いなくMHWゲームデザインの妙なので、そこは誤解しないようにしたい。モンハン最高。

一緒にプレイしてくれる人がいなければ秒で珠掘るのやめてます。

 

結局、気の置けない最高の仲間と卓を囲めるのなら、卓上に乗った料理は最高級フランス料理のフルコースでもマックのポテトMの食いかけでも何でもいいのかもしれないな、と昔からずっと思っていることを改めて思い知らされた一ヶ月だった。

 

余談だが、去年愛知に遊びに行ったとき、男数人で夜中に七並べをしてゲラゲラ笑っていたので、もう本当に何でもいいところまで来ていたんだなと今書いていて思い出した。

さらに、七並べの後はお泊り界のスタンダードギグである「下ネタしりとり」をやったのだが、「ア○ル」で詰まって

ルーモス、光よ

と続けたところがピークだった。

「え、ハリーポッターもありなの?」ではない。

俺は今でも藤原基央に恋をしているという話

中学二年生、14歳からこちら。

私は、ずっと恋をしている。

藤原基央に、恋をしている。

初めは盲目だった。彼の発する全てを肯定したし、彼を害する者あらば、覚えたての活字の剣で払おうとした。

私という人間の真ん中に伸びた樹は、藤原基央の音で根を張り、藤原基央の言葉で枝を伸ばし、葉と花弁を付けた。きっと、その頃の私の価値観は彼の借り物だった。

高校生になると、その延長線上でギターを携え、バンドを組んだ。好きなモノに近づきたくて、模倣した。

16歳の年、初めてライブハウスでコピーバンドだったがステージに立った。

田舎のライブハウスの小さな企画ではあったが、今でも鮮明に情景を覚えている。

黒い壁にベタベタに貼られたステッカー、バックステージパス。スゲェ髪色のお兄さんお姉さん、光に照らされ揺れるスモーク。その全部が、文化祭の手作りステージとは一線を画していた。

なぜか少しも悪いことをしていないのに「アタシ、不良になっちゃう!」と内心ちょっとだけビビっていたのは今だから笑って言えることで、当時はその雰囲気に呑まれないよう、必死で背伸びをしながら、世界中の誰にも舐められたくない思いでステージに立っていた。

その時演奏したのは、アジカンN.G.S、NIRVANASmells Like Teen Spirit、そしてBUMP OF CHICKENガラスのブルース

きっとこの先も自分はこうしてBUMPを聴いて、演奏して、藤原基央の音楽によりそって生きていくのかな、となんとなく思っていた。

しかし、女心(いや)と秋の空とはよく言ったもので、その後にやってきたのは長い長い倦怠期だった。

「フジ、丸くなったね」

彼の話になると、口癖のようにそう毒づいた。

達観したフリで大人になった気分に浸った。その頃BUMPを聴き始めた人達を「今かよ」と蔑んでさえいた。かつて、自らが来た道を往くキャラバンを嗤った。

どこに出しても恥ずかしい、額縁に入れて飾りたい高2病の到来。

趣向も70~80年代のHR/HMに傾倒していき、日本の若手バンド自体から遠ざかっていった。ロキノン、という言葉も良くない意味で吐いていた記憶がある。

自分がヘビメタって言われたらどうせ怒るのに、なんとも理不尽でめんどくさい男である。

ここで話は変わるが、私の理想の女性のタイプは「別れた恋人の悪口を友人に過度にしない人」である。

たとえ既に過ぎ去った時間であっても一度愛した人、大げさに言えば一時の半身だったものを貶めることは自らの価値観、審美眼を貶めること、軽んじることに相違ないからだ。思い出は思い出として大切にして欲しい、と思う。人それぞれ事情はあるのだが。

ちなみに、これは能登麻美子の受け売りである。ひらがな3つでおーじなのだ。

つまり、何が言いたいかというと、その時の自分は、今の私が嫌いな「好きだったものの悪口を周りに言いふらす最低野郎」だったということだ。

麻美子、ごめん。

だが、人は変われる生き物でもあるのだ。転機は直に訪れる。NO REASON。

大学生となった。部活という括りでバンド自体は続けていた。でもやっぱり、BUMPは全然聴いていなかった。

コピーするのもメタルが多め、曲を作ってみても、どれだけかっこいいリフを書けるかに熱中した。

そんな折、学内のライブでBUMPのコピーバンドを見る機会があった。

新旧織り交ぜた良い選曲、そして何よりも「あぁ~~こいつ藤原好きなんだろうなァ~~」と一発でわかる、肩から下げた黄色のレスポールスペシャルと少し鼻にかかった歌い方に頬が緩んだ。

しかし、それとほぼ同時に飛来した感情はまさかの嫉妬、悔しさ、情けなさであった。

「お、おおおお、俺だってフジくん好きだし!」

「いやBUMPだったら俺の方が昔っから…」

「お前、ぶっちゃけ藤原基央のこと、どれぐらい好きなの?」

「チャマの実家、行ったことあんのか?」

「どうして俺、BUMP聴かなくなっちまったんだろうな…」

 

それは、あるいは焦燥感だったのかもしれない。

自分の真ん中にあったはずの花の名を、こんなにも長い時間忘れていた、こんなにも水をやるのを忘れていた。

BUMP OF CHICKENを、藤原基央を否定することは、もはや自分の半生を否定することと変わりないレベルのものになってしまっていたというのに。

自分の恋心に嘘を吐くことほど、哀しいことはないというのに。

 

その日の夜、久しぶりにFLAME VEINを聴いた。

決して良いとは言えない録音環境、今よりもずっと拙い演奏、しかし、若い力と真に迫る熱量が閉じ込められた無敵の一枚。涙が出た。心臓に鋭いナイフが突き刺さる。

中学生の頃より、よっぽど視野を広げて音楽を聴いている。よっぽど上手くギターを弾けているはずなのに。

よっぽどかしこく、生きている、はずなのに。

他のバンドを聴いた時とは違う感情が溢れて止まらない。

こんな想い、他にはない。痛感した。

私の音楽の原体験はBUMP OF CHICKENで、藤原基央の歌声で、決してそこに嘘をついてはいけないものだったのだ。

 

 

 

社会人になって、今。

私はまだ、虹を作っては手を伸ばし続けている。

名前を思い出したその白い花は、今も私の中で深く根を張って、力強く揺れている。

 

最近は昔に戻ったように、BUMPを本当によく聴くようになった。

やはり昔の曲が大好きだが、新しい曲には、キャリアを積み重ねた今でしか紡げない音もたくさんあって、全部愛してやりたい。彼らの足跡を数えて、生きていきたい。

「お茶の間でせんべい齧りながらライブを見るな」って尖ってたあの頃の、大言壮語を一緒に懐かしみたい。

クリスマスソングは作らないとか言ってたのに結局作ったのも笑って許してあげたい。

ベストアルバムは出さないって言ってたのに出したのも、大人になったねって褒めてあげたい。

ライブで昔の曲を演ると、一瞬であの頃に戻れるのを「かっこいいよ」って手を叩いて泣きたい。

そういったあれやこれ、難しいこと全部抜きにして、盲目になってしまいたい。

 

なぜなら、俺は今でも、藤原基央に恋をしているのだから。

 

サークルKサンクスでファミチキを頼めないという話

2017年 2月末日のことである。
兼ねてより進められていたファミリーマートサークルK・サンクスの経営統合、商品統合がついに完遂された。

これによってファミリーマートサークルKサンクスの違いは正真正銘『ガワ』だけとなり、店内空間は慣れ親しんだファミマのそれへと統一された。

私は人生で最も利用しているコンビニがファミマなので(たぶん)、このニュースはシンプルに朗報だった。
実質的にファミマの店舗数が増えるわけだし、これからは生活がさらに便利になるだろうと期待していた。

それからしばらくして。
意気揚々と訪れたサークルKにて、そんな浅はかな思考は粉微塵にされることとなる。





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皮肉が過ぎるわ


赤橙にKのロゴは、ずっと見てきたサークルKの姿。
しかしそこに翻る御旗は白青緑の「Welcome to Family mart!」

異常な光景、視覚が痛覚を伴う。





自分を磨くため長い放浪の旅に出ていた王子がいた。
祖国に帰った彼の目に映ったのは蹂躙される国土と隷属の果てに無理やり城に掲げられた憎き敵国の旗印…

まさにそんな気分。
敗北国の首都で大々的に行われる戦勝パレードのような不快さを感じる。

ファミチキ先輩」とかいうこいつの後輩になった覚えの全くない珍妙な擬人化キャラがファミマ帝国のプロパガンダだ。

誰にでもわかる。あるべきものがあるべきところに収まっている状態というのは正しく、美しい。

ガラスの靴は、王子が必ずシンデレラの元へ。
ファミチキは、あなたとコンビにファミリーマートへ。
決してファミチキ先輩はサークルKにいてよいものではないのだ。先輩、興が過ぎましたね。

そう。こんな所業、何かの間違いに決まっている。
きっと、私は昨今の仕事が辛すぎて…48歳の直属の上司(独身)がダンまち、読んだ?」と聞いてくるのが辛すぎて…いつの間にか会社帰りに夢の中に迷い込んでしまったのだろう。
胸の早鐘が収まっていくのを確かめて、私はゆっくりとサークルKの扉を開いた。

「いらっしゃいませ~」
いつも通りの、サークルKの制服に身を包んだ店員さんの姿に胸を撫で下ろす。

しかし。これが甘かった。
レジ横に、いた。
カラッとあがっちまったファミチキ先輩が、まるでオークの大群の如く保温ケースの中で蠢いていた。
遅かった。既に、本丸は陥落していたのである。



誤解のないように言えば。
私はファミチキは大好きだ。
ケンタッ○ーよりも美味いと思う。

しかし、しかしである。
私は、とても言える気がしなかった。
ファミチキください」と、この場で言える気がしなかった。
だって、だっておかしいのだ。
ここはサークルKで、決してファミリーマートではなくて、店員さんはいつもの制服で…
私は思考の渦に呑まれていた。

ファミチキを売らされているのは、この店員さんの本意ではないはずだ。
いつも通りの制服を着て、店頭に立って、敵国の商品を売らされる、宣伝させられる。

ファミチキお安くなってますよ~…」

これ自体が戦勝帝国ファミマが属国となった敗者に課した罪と罰だとでもいうのか。
あまりにも惨い。

私が「ファミチキください」と言ってしまったら。
彼はきっと笑顔でファミチキを包むのだろう。
しかし心では泣いているのである。
カウンターの下に隠した握りこぶしには血が滲んでいるはずだ。
本当はサークルKの商品を笑顔で売りたいに決まっている。
彼は間違いなく「サークルKの店員」なのだから。
その誇りの火はまだ消えていないはずなのだから。

だから。私は言えない。
とてもじゃないがサークルKサンクスで「ファミチキください」とは言えない。

最後に残った騎士の矜持を踏みにじるなど、痴れ者にも劣る行為だからだ。


私はファミチキを頼まずに買い物を済ませた。
きっといつか彼がこの国を建てなおすことを信じて。
サークルKで、再び真紅の旗が翻る日を夢見て。




すると、去り際に。彼は笑顔でこう言って見せたのだ。




「700円以上お買い上げなのでクジ一枚引いてください」

私は咆哮した。

「これ今ファミマでもやってるやつやんけ」

結果は応募券だった。
やはりファミマはクソ。

※ファミリマートもサークルKサンクスも大好きです。

かんばせという言葉の持つ美しさについての話

私は日本語が好きなので、どうしてもこの手の話題をしがちだが、構わず書いていく。

 (成り立ちについては他に素晴らしいブログがたくさんあるはずなのでここでは割愛)

 

かんばせ端的に言って顔。その表情。

単に音にしても美しい響きだが、この言葉の最大の魅力は「表情」という意味の中でもよりその一瞬を捉えたニュアンスを含んでいるところだ。

例えるならばカメラが切り取ったその一枚、その刹那の表情というのがイメージに近い。

だが、カメラのカの字もない時代にはそれを面影として心と瞼の裏に刻む他なかった。

だからこそ、儚いそのひとひらを指して人は「顔馳せ」と呼んだのかもしれない。

カメラはその朧なる「顔馳せ」を切り取り、残すことができる現代文明が生んだ妖刀だ。皆もかんばせゲットじゃぞ。

しかし、だからといって「かんばせ」を捉えるハードルが下がってもよい謂われにはならない。

飲み会の集合写真、旅行での記念撮影、ミッキーとのハグ。

おそらくそのいずれにも素晴らしい笑顔が収められていることだろう。

楽しい思い出、その1ページを凝縮した尊いものだろう。

 

だが、果たしてそこに「かんばせ」はあるのだろうか。

私の回答は断じて

「花のかんばせ」と例えられる一瞬の輝きは生半可な写真には写らないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とある放課後。

部活を引退し、その後に続く大学受験、そして高校卒業を目前に控え、彼女は決断を迫られていた。

進学後は学業に専念か、それともバレーを続けるのか。それによって進路は大きく変わってしまう。

両親の希望は学業に専念して欲しい、という至極真っ当なものだった。

理解は、できる。プロを目指すなんてレベルじゃない人間がいつまでもスポーツという先の見えないものに身を焦がしている様はきっと、とても不確かで、曖昧で。

 

「私、18年間生きてきて今が一番悩んでいると思う。でも、本当に怖いのは10年後、20年後に振り返った時に”今考えるとちっぽけな悩みだったなあ”って感じちゃうこと。そんなの嫌なんだ。今こんなに苦しいんだから、何十年後だってあの時うんと悩んで良かったー!って思いたいわけ。もしいつか私がお母さんになったりした時にさ、この気持ちはできれば大切な思い出として話したいって思う。」

3年間笑顔を絶やさず、チームの元気印として常に全力で走ってきた少女がこぼした純度100%、混じり気のない等身大の本音。こんな顔もするのだなと、同性ながらドキッとした。

「あー!!もう、ほんっとなんていうか…弱いなあ…」

窓の外に視線を流しながら、彼女は肘をつく。

夕焼けに照らされ赤みを帯びたその横顔に、ほんの少し、光るものを見た。

黄昏。教室。二人きり。

遠くの音楽室からかすかに漏れるユーフォニアムの音だけが、優しく空気を揺らしていた。

 

 

 

 

パシャ!!!!!

 

ここである。ここの横顔。これこそがかんばせだ。興奮する。

かんばせは狙ってできる表情ではない。ナチュラルな感情の機微の断片だからだ。

カメラを真正面から向けて「はい、表情ください!!」と言って撮られた笑顔ではかんばせの名を拝することは敵わない。そんなものはただの顔面である。

顔面とかんばせは大違いである。

顔面の作画担当が漫☆画太郎ならば、かんばせの作画担当は中村佑介である。

よって先程の少女の横顔はおそらくは教室の隅の掃除用具入れに隠れていたオッサンなどが密かに撮影したのだ。

かんばせをフィルムに収めるにはリスクが付き物であり、社会的規律を軽んじる妖刀使いのオッサンの助力なしでは成し得ないのだ。

理想のかんばせは、未だ遥か遠い。

素人童貞という言葉の持つ強靭さについての話

私は常日頃から素人童貞という日本語を大変恐ろしいものと感じている。

この世の不条理を詰め込んでいる負の言葉ではないかと慄いている。

きっかけはある日、当時付き合っていた彼女が電話口で死ぬほど笑いながら言っていた話だ。

 

「何でわざわざ金払ってまでやったのに童貞の称号は捨てられないんだよ。理不尽すぎるだろ」

 ゲラゲラ笑いながら言っていた。というかヒィヒィ言っていた。本当に死ぬぞ。

よくもここまで自分の言ったことで笑えるなと思ったが、それは確かにと得心した。

 つまり、世間は「風俗店で対価を支払って性行為をしたからといって童貞の名を捨てられると思うなよ」とそう言っているわけである。

「レッテルとしての童貞」を脱することへのハードルが極めて高めに設定されている。

ただの童貞が風俗に行った場合、いたって事務的な処理によって素人童貞へとジョブチェンジするだけなのだ。

むしろ言葉の響きとしては悪化の一途であり、まだピュアな印象を残す童貞に対して素人童貞は金に飽かしてしまった風があってよろしくない。

素人童貞という言葉が存在する限り、完全にその名を捨てる場合には「性を生業としていない女性とのSEXの経験」が必要となってしまう。

呪われた指輪を火口に捨てに行く覚悟で童貞を捨てに行かなければならないだろう。

 

例えばの話をしよう。

遥か銀河系の果てにある惑星オ・セックスでは今、マッドサイエンティスト達によって恐ろしい計画が進められていた。

彼らは人類との異種間交配を行うことで種の繁栄や進化系図の多様化を目論んでおり、その研究の末ついに人類との体の相性抜群であらゆる性技に通じた最高のセックス・モンスター(※ありえないぐらいエロい)を生み出すことに成功した。

セックスをする為のみに特化された生物兵器、まさに性の権化である。

そいつらが一斉に地球へと飛び立つわけだ。

幾千光年の長い旅路を越え、ついにその群体が日本に飛来し、童貞を食い荒らす。

研究に裏打ちされた無駄のないかつ豪胆な性の技に骨抜きにされる童貞達。

瞬く間に日本中の童貞はセックス・モンスター(※巨乳)の支配下におかれることになる。

しかし、しかしである。驚くべきことに。

こうして性の怪物によって純潔を散らされてもなお、なんと童貞は素人童貞になっただけなのである。当然だ。

セックス・モンスター(※B92W60H89)は紛うことなき性のプロなのだから。言ってしまえば魔改造された高級ソープ嬢みたいなものだ。

そこには素人のたどたどしさや初々しさは微塵もない。

ただ男を果てさせる能力の具現化だけがそびえ立つ。

故に、たとえ性行為の為にチューンナップされた地球外生命体が飛来したとしても、

たとえそれらが絨毯爆撃の如く異種間交配を行い、童貞達がその餌食となったとしても、

素人童貞は決して卒業することはできないのだ。

この襲撃で童貞は素人童貞と合いなるが、素人童貞素人童貞のままだ

襲われた心の傷だけを背負って明日を生きなければならない。

いかにこの呪いのごとき四文字が屈強かがわかっていただけただろうか。

素人童貞は日本語レッテル界の鉄の門である。

生半可なレッテルとは強度が違う。

 

さあここまで来てしまったのならば、諦めて欲しい。

この門を叩き破る方法はもはや、古今東西一つしかないのだ。自明の理だ。

真っ当な出会いをして、素人のパートナーを見つける。これしかない。

唯一無二で絶対、彼の邪知暴虐の素人童貞を刺し貫く、僕らのグングニル

今すぐ恋人を作れ!

 

なんとロマンティックで心滾る展開だろうか。

銀河の果て、アカシックレコードの粋を極めて造られた宇宙最強の性の魔物ですら打ち砕けなかった鉄の門を、

君の隣で笑う優しくて頑張り屋で、ちょっぴりおっちょこちょいなどこにでもいそうな女の子がいとも容易く貫いていくのだ。

 

愛の力は偉大だ。

オ・セックス星の天才達が一つだけ過ちを犯したとするならば、それは愛を込めなかったことだろう。ただの生殖行為に温もりを与える最後のピースを見落としていたのだ。

性の技のみをたらふく詰め込まれた小手先の生物など所詮、童貞を素人童貞に変えるくらいが関の山だということだ。可愛いあの子の笑顔にはてんで敵わない。

 

ちなみにここで「いや別に恋人じゃなくても素人と致す方法は他にも...」と考えた人は荒んでしまっているので心が素人童貞です。

 

最後に。

めでたく恋人ができ、素人童貞を卒業した者が次に何と呼ばれるのか。

実はここに日本語の本当の恐ろしさが垣間見える。

 

非童貞である。

童貞に非ず。Not 童貞である。

否定形になるだけで童貞という二文字は残るのだ。これは素直に怖い。

 

例えば散々槍玉に上げてきた「素人」というワードは進化先が「玄人」だ。

完全に別の漢字が割り当てられ、「プロ感」が増しているし、言葉から受ける印象はヒンバスミロカロスぐらい差がある。

なのに「童貞」は進化先が「非童貞」なのである。悲しいかな屈強な二文字が消えてくれない。

これは日本人の潜在意識の話にシフトしてきそうである。

童貞であることが自然、それを卒業したものこそが特異かのように「非」の一字にて潰しにかかるのだ。

少子化問題の根元すらチラついて見える。

つまりだ。有史以来、この遥かなる時流の中で「童貞」=「SEXの経験のない男性」という日本語を産みだしておきながら、そもそも「SEXの経験のある男性」という意味の日本語の固有名詞は産みださなかったということなのだ。

童貞と対になる名詞が存在しない以上、今現在、童貞を否定形にする以外でそれを表現することはできない。

性に対しての、そして日本語に対しての明らかな怠慢である。

故に、この「SEXの経験ある男性」という意味の名詞を産み出すことこそがこれから21世紀、22世紀と続いていく人類史の一つの宿題であると皆さんに問いかけて、今日の暇つぶしをここに終えたい。

140字以内のレポートにまとめて、月曜日の昼までに私に提出すること。