おーじの覚書

日々考えては霧散していくような何でもないことを覚え書き程度に。へヴィメタルと格ゲーを愛する社会人2年目

俺は今でも藤原基央に恋をしているという話

中学二年生。14歳からこちら。

私はずっと恋をしている。藤原基央に、恋をしている。

初めは盲目だった。彼の発する全てを肯定したし、彼に害するモノならば、覚えたての活字の剣で払おうとした。

私という人間の真ん中に伸びた木は、藤原基央の音で根を張り、藤原基央の言葉で枝を伸ばし、そして葉と花弁を付けた。きっと、その頃の私の価値観は彼の借り物だったのだ。

高校生になると、その延長線上でギターを携え、バンドを組んだ。好きなモノに近づきたくて、模倣した。

16歳の年、初めてライブハウスでコピーバンドだったがステージに立った。

田舎のライブハウスの小さな企画ではあったが、今でも鮮明に情景を覚えている。

黒い壁にベタベタに貼られたステッカー、バックステージパス。スゲェ髪色のお兄さんお姉さん、光に照らされ揺れるスモーク。その全部が、文化祭の手作りステージとは一線を画していた。

なぜか少しも悪いことをしていないのに「アタシ、不良になっちゃう!」と内心ちょっとだけビビっていたのは今だから笑って言えることで、当時はその雰囲気に呑まれないよう、必死で背伸びをしながら、世界中の誰にも舐められたくない思いでステージに立っていた。

その時演奏したのは、アジカンN.G.S、NIRVANASmells Like Teen Spirit、そしてBUMP OF CHICKENガラスのブルース

きっとこの先も自分はこうしてBUMPを聴いて、演奏して、藤原基央の音楽によりそって生きていくのかな、となんとなく思っていた。

しかし、女心と秋の空(否、男)とはよく言ったもので、その後にやってきたのは長い長い倦怠期だった。

「フジ、丸くなったね」

彼の話になると、口癖のようにそう毒づいた。

達観したフリで大人になった気分に浸った。その頃BUMPを聴き始めた人達を「今かよ」と蔑んでさえいた。かつて、自らが来た道を往くキャラバンを嗤った。

どこに出しても恥ずかしい、額縁に入れて飾りたい高2病の到来。

趣向も70~80年代のHR/HMに傾倒していき、日本の若手バンド自体から遠ざかっていった。ロキノン、という言葉も良くない意味で吐いていた記憶がある。

自分がヘビメタって言われたらどうせ怒るのに、なんとも理不尽でめんどくさい男である。

ここで話は変わるが、私の理想の女性のタイプは「別れた恋人の悪口を友人に過度にしない人」である。

たとえ既に過ぎ去った時間であっても一度愛した人、大げさに言えば一時の半身だったものを貶めることは自らの価値観、審美眼を貶めること、軽んじることに相違ないからだ。思い出は思い出として大切にして欲しい、と思う。人それぞれ事情はあるのだが。

ちなみに、これは能登麻美子の受け売りである。ひらがな3つでおーじなのだ。

つまり、何が言いたいかというと、その時の自分は、今の私が嫌いな「好きだったものの悪口を周りに言いふらす最低野郎」だったということだ。

麻美子、ごめん。

だが、人は変われる生き物でもあるのだ。転機は直に訪れる。NO REASON。

大学生となった。部活という括りでバンド自体は続けていた。でもやっぱり、BUMPは全然聴いていなかった。

コピーするのもメタルが多め、曲を作ってみても、どれだけかっこいいリフを書けるかに熱中した。

そんな折、学内のライブでBUMPのコピーバンドを見る機会があった。

新旧織り交ぜた良い選曲、そして何よりも「あぁ~~こいつ藤原好きなんだろうなァ~~」と一発でわかる、肩から下げた黄色のレスポールスペシャルと少し鼻にかかった歌い方に頬が緩んだ。

しかし、それとほぼ同時に飛来した感情はまさかの嫉妬、悔しさ、情けなさであった。

「お、おおおお、俺だってフジくん好きだし!」

「いやBUMPだったら俺の方が昔っから…」

「お前、ぶっちゃけ藤原基央のこと、どれぐらい好きなの?」

「チャマの実家、行ったことあんのか?」

「どうして俺、BUMP聴かなくなっちまったんだろうな…」

 

それは、あるいは焦燥感だったのかもしれない。

自分の真ん中にあったはずの花の名を、こんなにも長い時間忘れていた、こんなにも水をやるのを忘れていた。

BUMP OF CHICKENを、藤原基央を否定することは、もはや自分の半生を否定することと変わりないレベルのものになってしまっていたというのに。

自分の恋心に嘘を吐くことほど、哀しいことはないというのに。

 

その日の夜、久しぶりにFLAME VEINを聴いた。

決して良いとは言えない録音環境、今よりもずっと拙い演奏、しかし、若い力と真に迫る熱量が閉じ込められた無敵の一枚。涙が出た。心臓に鋭いナイフが突き刺さる。

中学生の頃より、よっぽど視野を広げて音楽を聴いている。よっぽど上手くギターを弾けているはずなのに。

よっぽどかしこく、生きている、はずなのに。

他のバンドを聴いた時とは違う感情が溢れて止まらない。

こんな想い、他にはない。痛感した。

私の音楽の原体験はBUMP OF CHICKENで、藤原基央の歌声で、決してそこに嘘をついてはいけないものだったのだ。

 

 

 

社会人になって、今。

私はまだ、虹を作っては手を伸ばし続けている。

名前を思い出したその白い花は、今も私の中で深く根を張って、力強く揺れている。

 

最近は昔に戻ったように、BUMPを本当によく聴くようになった。

やはり昔の曲が大好きだが、新しい曲には、キャリアを積み重ねた今でしか紡げない音もたくさんあって、全部愛してやりたい。彼らの足跡を数えて、生きていきたい。

「お茶の間でせんべい齧りながらライブを見るな」って尖ってたあの頃の、大言壮語を一緒に懐かしみたい。

クリスマスソングは作らないとか言ってたのに結局作ったのも笑って許してあげたい。

ベストアルバムは出さないって言ってたのに出したのも、大人になったねって褒めてあげたい。

ライブで昔の曲を演ると、一瞬であの頃に戻れるのを「かっこいいよ」って手を叩いて泣きたい。

そういったあれやこれ、難しいこと全部抜きにして、盲目になってしまいたい。

 

なぜなら、俺は今でも、藤原基央に恋をしているのだから。

 

サークルKサンクスでファミチキを頼めないという話

2017年 2月末日のことである。
兼ねてより進められていたファミリーマートサークルK・サンクスの経営統合、商品統合がついに完遂された。

これによってファミリーマートサークルKサンクスの違いは正真正銘『ガワ』だけとなり、店内空間は慣れ親しんだファミマのそれへと統一された。

私は人生で最も利用しているコンビニがファミマなので(たぶん)、このニュースはシンプルに朗報だった。
実質的にファミマの店舗数が増えるわけだし、これからは生活がさらに便利になるだろうと期待していた。

それからしばらくして。
意気揚々と訪れたサークルKにて、そんな浅はかな思考は粉微塵にされることとなる。





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皮肉が過ぎるわ


赤橙にKのロゴは、ずっと見てきたサークルKの姿。
しかしそこに翻る御旗は白青緑の「Welcome to Family mart!」

異常な光景、視覚が痛覚を伴う。





自分を磨くため長い放浪の旅に出ていた王子がいた。
祖国に帰った彼の目に映ったのは蹂躙される国土と隷属の果てに無理やり城に掲げられた憎き敵国の旗印…

まさにそんな気分。
敗北国の首都で大々的に行われる戦勝パレードのような不快さを感じる。

ファミチキ先輩」とかいうこいつの後輩になった覚えの全くない珍妙な擬人化キャラがファミマ帝国のプロパガンダだ。

誰にでもわかる。あるべきものがあるべきところに収まっている状態というのは正しく、美しい。

ガラスの靴は、王子が必ずシンデレラの元へ。
ファミチキは、あなたとコンビにファミリーマートへ。
決してファミチキ先輩はサークルKにいてよいものではないのだ。先輩、興が過ぎましたね。

そう。こんな所業、何かの間違いに決まっている。
きっと、私は昨今の仕事が辛すぎて…48歳の直属の上司(独身)がダンまち、読んだ?」と聞いてくるのが辛すぎて…いつの間にか会社帰りに夢の中に迷い込んでしまったのだろう。
胸の早鐘が収まっていくのを確かめて、私はゆっくりとサークルKの扉を開いた。

「いらっしゃいませ~」
いつも通りの、サークルKの制服に身を包んだ店員さんの姿に胸を撫で下ろす。

しかし。これが甘かった。
レジ横に、いた。
カラッとあがっちまったファミチキ先輩が、まるでオークの大群の如く保温ケースの中で蠢いていた。
遅かった。既に、本丸は陥落していたのである。



誤解のないように言えば。
私はファミチキは大好きだ。
ケンタッ○ーよりも美味いと思う。

しかし、しかしである。
私は、とても言える気がしなかった。
ファミチキください」と、この場で言える気がしなかった。
だって、だっておかしいのだ。
ここはサークルKで、決してファミリーマートではなくて、店員さんはいつもの制服で…
私は思考の渦に呑まれていた。

ファミチキを売らされているのは、この店員さんの本意ではないはずだ。
いつも通りの制服を着て、店頭に立って、敵国の商品を売らされる、宣伝させられる。

ファミチキお安くなってますよ~…」

これ自体が戦勝帝国ファミマが属国となった敗者に課した罪と罰だとでもいうのか。
あまりにも惨い。

私が「ファミチキください」と言ってしまったら。
彼はきっと笑顔でファミチキを包むのだろう。
しかし心では泣いているのである。
カウンターの下に隠した握りこぶしには血が滲んでいるはずだ。
本当はサークルKの商品を笑顔で売りたいに決まっている。
彼は間違いなく「サークルKの店員」なのだから。
その誇りの火はまだ消えていないはずなのだから。

だから。私は言えない。
とてもじゃないがサークルKサンクスで「ファミチキください」とは言えない。

最後に残った騎士の矜持を踏みにじるなど、痴れ者にも劣る行為だからだ。


私はファミチキを頼まずに買い物を済ませた。
きっといつか彼がこの国を建てなおすことを信じて。
サークルKで、再び真紅の旗が翻る日を夢見て。




すると、去り際に。彼は笑顔でこう言って見せたのだ。




「700円以上お買い上げなのでクジ一枚引いてください」

私は咆哮した。

「これ今ファミマでもやってるやつやんけ」

結果は応募券だった。
やはりファミマはクソ。

※ファミリマートもサークルKサンクスも大好きです。

かんばせという言葉の持つ美しさについての話

私は日本語が好きなので、どうしてもこの手の話題をしがちだが、構わず書いていく。

 

かんばせ端的に言って顔。その表情。

成り立ちについては他に素晴らしいブログがたくさんあるはずなので、ここでは割愛する。

 

かんばせ、古き良き日本語の風情を残した美しい響きだ。

それに加え、私が思うこの言葉の最大の魅力は「表情」という意味の中でもよりその一瞬、刹那を捉えたニュアンスを含んでいるところだ。

例えるならばカメラが切り取ったその一枚、その瞬間の表情というのがイメージに近い。

その昔は脳内保存しかできなかった。だからこそ、儚いそのひとひらを指して人は「顔馳せ」と呼んだのかもしれない。

だが、今はその一瞬を半永久的に切り取って保存できてしまう。人の業を深さを感じる。

カメラとは、決して刃では斬ることのできないものを斬ることができる近代文明が産んだ妖刀なのかもしれない。

しかし、だからといって「かんばせ」を捉えるハードルが下がってもよい謂われにはならない。

飲み会の集合写真、旅行での記念撮影、ミッキーとのハグ。

おそらくそのいずれにも素晴らしい笑顔が収められていることだろう。

楽しい思い出、その1ページを凝縮した尊いものだろう。

 

だが、果たしてそこに「かんばせ」はあるのだろうか。

私の回答は断じて

「花のかんばせ」と例えられる一瞬の輝きは生半可な写真には写らないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とある放課後。

部活を引退し、その後に続く大学受験、そして高校卒業を目前に控え、彼女は決断を迫られていた。

進学後は学業に専念か、それともバレーを続けるのか。それによって進路は大きく変わってしまう。

両親の希望は学業に専念して欲しい、という至極真っ当なものだった。

理解は、できる。プロを目指すなんてレベルじゃない人間がいつまでもスポーツという先の見えないものに身を焦がしている様はきっと、とても不確かで、曖昧で。

 

「私、18年間生きてきて今が一番悩んでいると思う。でも、本当に怖いのは10年後、20年後に振り返った時に”今考えるとちっぽけな悩みだったなあ”って感じちゃうこと。そんなの嫌なんだ。今こんなに苦しいんだから、何十年後だってあの時うんと悩んで良かったー!って思いたいわけ。もしいつか私がお母さんになったりした時にさ、この気持ちはできれば大切な思い出として話したいって思う。」

3年間笑顔を絶やさず、チームの元気印として常に全力で走ってきた少女がこぼした純度100%、混じり気のない等身大の本音。こんな顔もするのだなと、同性ながらドキッとした。

「あー!!もう、ほんっとなんていうか…弱いなあ…」

窓の外に視線を流しながら、彼女は肘をつく。

夕焼けに照らされ赤みを帯びたその横顔に、ほんの少し、光るものを見た。

黄昏。教室。二人きり。

遠くの音楽室からかすかに漏れるユーフォニアムの音だけが、優しく空気を揺らしていた。

 

 

 

 

パシャ!!!!!

 

ここである。ここの横顔。これこそがかんばせだ。興奮する。

かんばせは狙ってできる表情ではない。ナチュラルな感情の機微の断片だからだ。

カメラを真正面から向けて「はい、表情ください!!」と言って撮られた笑顔ではかんばせの名を拝することは敵わない。そんなものはただの顔面である。

顔面とかんばせは大違いである。

顔面の作画担当が漫☆画太郎ならば、かんばせの作画担当は中村佑介である。

よって先程の少女の横顔はおそらくは教室の隅の掃除用具入れに隠れていたオッサンなどが密かに撮影したのだ。

かんばせをフィルムに収めるにはリスクが付き物であり、社会的規律を軽んじる妖刀使いのオッサンの助力なしでは成し得ないのだ。

理想のかんばせは、未だ遥か遠い。

素人童貞という言葉の持つ強靭さについての話

私は常日頃から素人童貞という日本語を大変恐ろしいものと感じている。

この世の不条理を詰め込んでいる負の言葉ではないかと慄いている。

きっかけはある日、当時付き合っていた彼女が電話口で死ぬほど笑いながら言っていた話だ。

 

「何でわざわざ金払ってまでやったのに童貞の称号は捨てられないんだよ。理不尽すぎるだろ」

 ゲラゲラ笑いながら言っていた。むしろヒィヒィ言っていた。

よくもここまで自分の言ったことで笑えるなと思ったが、それは確かにと得心した。

 つまり、世間は「風俗店で対価を支払って性行為をしたからといって童貞の名を捨てられると思うなよ」とそう言っているわけである。

「レッテルとしての童貞」を脱することへのハードルが極めて高めに設定されている。

そこには決して認めぬぞという鉄の意志すら感じる。

ただの童貞が風俗に行った場合、いたって事務的な処理によって素人童貞へとジョブチェンジするだけなのだ。

むしろ言葉の響きとしては悪化の一途であり、まだピュアな印象を残す童貞に対して素人童貞は金に飽かしてしまった風があってよろしくない。

素人童貞という言葉が存在する限り、完全にその名を捨てる場合には「性を生業としていない女性とのSEXの経験」が必要となってしまう。

呪われた指輪を火口に捨てに行く覚悟で童貞を捨てに行かなければならないだろう。

 

例えばの話をしよう。

遥か銀河系の果てにある惑星オ・セックスでは今、マッドサイエンティスト達によって恐ろしい計画が進められていた。

彼らは人類との異種間交配を行うことで種の繁栄や進化系図の多様化を目論んでおり、その研究の末ついに人類との体の相性抜群であらゆる性技に通じた最高のセックス・モンスター(※ありえないぐらいエロい)を生み出すことに成功した。

セックスをする為のみに特化された生物兵器、まさに性の権化である。

そいつらが一斉に地球へと飛び立つわけだ。

幾千光年の長い旅路を越え、ついにその群体が日本に飛来し、童貞を食い荒らす。

研究に裏打ちされた無駄のないかつ豪胆な性の技に骨抜きにされる童貞達。

瞬く間に日本中の童貞はセックス・モンスター(※巨乳)の支配下におかれることになる。

しかし、しかしである。驚くべきことに。

こうして性の怪物によって純潔を散らされてもなお、なんと童貞は素人童貞になっただけなのである。当然だ。

セックス・モンスター(※B92W60H89)は紛うことなき性のプロなのだから。言ってしまえば魔改造された高級ソープ嬢みたいなものだ。

そこには素人のたどたどしさや初々しさは微塵もない。

ただ男を果てさせる能力の具現化だけがそびえ立つ。

故に、たとえ性行為の為にチューンナップされた地球外生命体が飛来したとしても、

たとえそれらが絨毯爆撃の如く異種間交配を行い、童貞達がその餌食となったとしても、

素人童貞は決して卒業することはできないのだ。

この襲撃で童貞は素人童貞と合いなるが、素人童貞素人童貞のままだ

襲われた心の傷だけを背負って明日を生きなければならない。

いかにこの呪いのごとき四文字が屈強かがわかっていただけただろうか。

素人童貞は日本語レッテル界の鉄の門である。

生半可なレッテルとは強度が違う。

 

さあここまで来てしまったのならば、諦めて欲しい。

この門を叩き破る方法はもはや、古今東西一つしかないのだ。自明の理だ。

真っ当な出会いをして、素人のパートナーを見つける。これしかない。

唯一無二で絶対、彼の邪知暴虐の素人童貞を刺し貫く、僕らのグングニル

今すぐ恋人を作れ!

 

なんとロマンティックで心滾る展開だろうか。

銀河の果て、アカシックレコードの粋を極めて造られた宇宙最強の性の魔物ですら打ち砕けなかった鉄の門を、

君の隣で笑う優しくて頑張り屋で、ちょっぴりおっちょこちょいなどこにでもいそうな女の子がいとも容易く貫いていくのだ。

 

愛の力は偉大だ。

オ・セックス星の天才達が一つだけ過ちを犯したとするならば、それは愛を込めなかったことだろう。ただの生殖行為に温もりを与える最後のピースを見落としていたのだ。

性の技のみをたらふく詰め込まれた小手先の生物など所詮、童貞を素人童貞に変えるくらいが関の山だということだ。可愛いあの子の笑顔にはてんで敵わない。

 

ちなみにここで「いや別に恋人じゃなくても素人と致す方法は他にも...」と考えた人は荒んでしまっているので心が素人童貞です。

 

最後に。

めでたく恋人ができ、素人童貞を卒業した者が次に何と呼ばれるのか。

実はここに日本語の本当の恐ろしさが垣間見える。

 

非童貞である。

童貞に非ず。Not 童貞である。

否定形になるだけで童貞という二文字は残るのだ。これは素直に怖い。

 

例えば散々槍玉に上げてきた「素人」というワードは進化先が「玄人」だ。

完全に別の漢字が割り当てられ、「プロ感」が増しているし、言葉から受ける印象はヒンバスミロカロスぐらい差がある。

なのに「童貞」は進化先が「非童貞」なのである。悲しいかな屈強な二文字が消えてくれない。

これは日本人の潜在意識の話にシフトしてきそうである。

童貞であることが自然、それを卒業したものこそが特異かのように「非」の一字にて潰しにかかるのだ。

少子化問題の根元すらチラついて見える。

つまりだ。有史以来、この遥かなる時流の中で「童貞」=「SEXの経験のない男性」という日本語を産みだしておきながら、そもそも「SEXの経験のある男性」という意味の日本語の固有名詞は産みださなかったということなのだ。

童貞と対になる名詞が存在しない以上、今現在、童貞を否定形にする以外でそれを表現することはできない。

性に対しての、そして日本語に対しての明らかな怠慢である。

故に、この「SEXの経験ある男性」という意味の名詞を産み出すことこそがこれから21世紀、22世紀と続いていく人類史の一つの宿題であると皆さんに問いかけて、今日の暇つぶしをここに終えたい。

140字以内のレポートにまとめて、月曜日の昼までに私に提出すること。

少女と王の話をするとしよう/FGO最終章感想(ネタバレあり)

数々の感想を読んでいたら我慢できなかった。

ので、私もFate/Grand Orderの第一部を終えての感想を書き殴る。

長くは語らないし、深い考察もない。思ったことをストレートに書く。

 

 

 

これはもう絶対の自信を持って言い切ってしまうが、

Fate/Grand Order 第一部はマシュ・キリエライトロマニ・アーキマンの物語だった。

この二人を通して、生きることの意味を問いかける物語だった。

 

 

マシュ・キリエライトという無色透明だった少女が色彩を得る為の旅路。

それが、この人理修復の物語が持つ一つの大きな主題だと感じた。

 

これは客観的に見て本当に月並みな感想だと思う。

だって、皆そう感じたはずなのだから。

FGOをクリアしたほぼ全ての人が「これはマシュの成長と変化の物語だったなぁ」という感想を抱くはずで、私はこれが単純にすごいことだと思うのである。

つまり、奈須きのこが描きたかった主題、伝えたかった想いはほぼ完ぺきにユーザーに伝わっているということだ。

これはまさにシナリオライターの面目躍如ではないか。

特異点Fから始まり、そして冠位時間神殿まで。伝えたいことが全くブレていない。

数々の味方、数々の敵、その全てとの出会い、救ってきた人理の全て、そしてなによりも主人公との触れ合いが色となって、マシュ・キリエライトという空っぽだった人間を満たしたのだ。全ての試練は、この少女が愛と強さを知る為にあった。

物語を経る度に、彼女はどんどん感情豊かに、そして確かに強くなっていく。

その過程をこの1年半、プレーヤーは肌で感じてきたはずだ。

また、ただのOPという枠に囚われず、もはやマシュというキャラクターのアンセムと言っていい楽曲「色彩」も最後まで物語を引っ張った千両役者だ。

ラスボスでOPのオーケストラアレンジが流れて気持ちが高ぶらない者など、この世のどこにも存在しない。

 

そして、ロマニ。

ロマニ・アーキマンの話をしなければならない。

自分自身の最後すらも悟りながら、彼は主人公とマシュに何を伝えようとしたのだろうか。

全てが終わった後で彼の台詞やマシュへの眼差しを思い出すと感情が揺れて揺れてたまらない。

 

彼はいつかマシュにこう言った。

 

「意味を持たないまま、人間は産まれ、そして寿命を迎える。」

「そうして終わった時にようやく、その生命がどういったものだったのか、という意味が産まれる。」

「これを人生というんだよ、マシュ。」

「僕らは意味の為に生きるんじゃない。生きたことに意味を見出す為に生きているんだ。」

 

これはこのゲームの中で本当に、本当に大切な言葉だと思う。

ロマニは、短い人生が確約されていたマシュに決して後悔して欲しくなかったのだ。

人生というものの本当の価値はどこにあるのか。

誰よりも人であることを願った彼の王は、薄命の少女にこそ知っておいて欲しかったのだ。

これは、英霊の人生を扱うFateという作品全体のテーマと言ってもいい。

奈須きのこが半生を賭して描きたいものの一つではなかろうか。

士郎にも、切嗣にも、この言葉を送りたい。

やはり、これはきのこが描く、fateの系譜に連なる正統な物語なのだ、と心震えた。

 

 

そして最終決戦、人間の生命の不完全さ、無意味さを宣下するゲーティアに対して、7つの特異点を越え、様々な英霊の想い願い生き様を受け取っていまや黄金の色彩を放つ少女はこう言うのだ。

 

「確かに、死が約束されている以上、生存は無意味です。」

「わたしは貴方の主張を否定する事はできません。」

「……でも。」

「人生は、生きているうちに価値の出るものではないのです。」

「死のない世界。終わりのない世界には悲しみもないのでしょう。」

「でも、それは違うのです。」

「永遠に生きられるとしても、わたしは永遠なんて欲しくない。」

「私が見ている世界は、今は、ここにあるのです。」

「……たとえ、わたしの命が、瞬きの後に終わるとしても。」

「それでもわたしは、一秒でも長く、この未来を視ていたいのです。」

 

ボロボロ泣いた。

「あぁ、良かった、繋がった。」と思った。ロマニの想いをマシュは確かに受け取っている。

この旅路で、誰よりも人の人生を見てきた少女の言葉には、数多の英霊の人生とともにロマニ・アーキマンの人生も一緒に乗っていた。こんなに嬉しいことはない。

 

 

「終わった時にようやく、その生命がどういったものだったのか、という意味が産まれる。これを人生というんだよ。」

男は少女にそう伝え、

「人生は、生きているうちに価値の出るものではないのです。」

少女は受け取り、そう叫んだ。

 

今まさに、終わりを迎えた一人の男の人生に、私たちは途方もない浪漫を感じている。

そして、その人生(おもい)を受け取った少女は青空を見上げ、また一歩、新たなる未来へ向かってその足を踏み出すのである。

大学で苦労した話とこぼれ話

大学3年の時。

機械系の学科にいた私は「機械設計製図」という授業を履修していた。

この授業は必修科目で、単位を落とす=留年がほぼ確定だったこともあり、当時は寝ても覚めても製図のことを考えているような日々を送っていた。

他の授業の出席を犠牲にしてでも製図室に籠っていたし、夜遅くまでウンウン唸りながら図面とにらめっこしていることも珍しくなかった。

私の小さな世界は、完全に製図を中心に回っていたと言っていい。

きっとこの時期は息抜きに格ゲー勢と飲み食いをしても製図が苦しいとばかりこぼしていたと思う。

大学の全てを既に終えている今の自分に、卒論と製図どっちが辛かったか?と問うてみても、正直製図の方が辛かったと答えるだろう。

製図と卒論。その2つで、最も大きかった苦と楽の分水嶺は、評価して点数を付けてくれる人間の違いだった。

卒論を担当してくれた研究室の教授にはとても感謝している。

正直夏ごろまで実験に本腰を入れていなかった不出来な自分にも最後まで熱心にアドバイスをくれた。

引き継ぎではなく新しく立ち上げた研究だったこともあり、教授ですら手探りの実験が多かったが、私の論文や考察に対する評価はブレることなくいつ何時でも正統に評価してくれた。決して甘いというわけではなく、根拠が曖昧ならばシビアに指摘してくれるし、逆に良く書けているならばすぐにOKサインを出してくれた。

 

一方、製図の担当だった先生はとにかく評価基準がブレる人だった。

極端に言えば、全く同じ出来、瓜二つの図面が二枚あったとして、それを時間を空けて一つずつ見せたら、片方は合格で片方は不合格で修正箇所を指摘される、といった具合である。

この原因は先生の人間的問題だけでなく、一応設けてある図面の評価基準にもあった。

「仕上がりの速さ」「図面としての完成度」の2つだ。

こう聞くと真っ当だが、「速さ」を満たした図面はそこで点数を稼げているので、いくらか内容が雑でも大目に見られている節があった。

逆に「遅い」図面はそこで得られる点数がないので「丁寧さ、完成度」で稼がなくてはならない。

その為に、遅くなればなるほど先生もやたら細かい箇所まで指摘してくる。

そこで「速く」上がった図面との点数の帳尻を合わせてくるのだ。

先生としては遅い人にも点数を上げたいという思いがあったのかもしれない。

が、この評価基準、かなりの泥沼だった。

「速く」あがった図面の完成度が本当に酷い時があるのだ。

書かれていないと図面として機能しないような記号が平気で抜け落ちているにもかかわらず、そのまま合格点となってしまうことも多かった。

 

この状況は教室全体に丁寧に時間をかけた方が圧倒的に損であるという共通認識をもたらした。

結論、製図はRTAとなった。速さこそ正義なのだ。

しかし、それでも速さに関わらず、図面を見せるタイミングで評価は謎のバラつきを見せ、確実を掴む方法はついに最後まで無かったと思う。

明確な正否が無いものを人間が評価することの難しさや曖昧さ、を痛感した。

 

夜の製図室では

「俺、そろそろ図面見せて来るわ」

「いや先生食後の一服した後の方が評価甘いから少し待った方がいいよ」

「リアル乱数調整やめろ」

 

のような会話が飛び交っていたし、もはや最後は製図の中身よりも、先生の機嫌のいいタイミングを見極め、ハキハキと元気に、そして礼儀正しく図面を見せに行く、というのが主題の謎の授業と化していた。

それでも、私は「これはこれで、社会に出たら絶対に役に立つ部分だよなぁ」と思っていたし、友人も皆割り切って望んでいた。

これは持論に過ぎないが、人生は気を抜いて過ごしていても何とかなる場面も多いが、その中でも本腰を入れて越えなければならない試練が何度かやってくる。シメるところはシメる、という奴だ。

製図はそのうちの一つだったのだと思う。漏れなく良い経験になった、はずである。

 

ここからは余談。

そんな大変だった機械設計製図だが、一度だけ大学の授業の中では一番笑った事件があった。

 

この話の主人公「A君」は教室の一番前、先生の机の目の前で図面を書いていた。

誰よりも先生に近い位置だ。息使いまで聞こえるか、という特等席。

 

そしてだ。

A君には致命的な弱点があった。

「独り言がデカい」

私も一度、テストで隣同士になった時に開始二分で「わからないよぉ」と隣から聞こえてきた時は笑いをこらえながらとてもイライラした。

「正気ですか?」と脳内のケンコバが怪訝な顔で怒っていた。

 そんな、彼の「独り言のデカさ」「先生との席の近さ」が悲劇のカタルシスを産んでしまったのである。

 

先生に図面のダメ出しをされ、自分の席に戻るA君。戻る、と言ってもそれに要する歩数はわずか3歩といったぐらいだ。それだけ近い。

 

にも関わらず、何を思ったのかA君は席に座った途端こう漏らした。

 

「はぁ、めんどくせぇなあ」

 

断っておくがA君は決して不良とかそういう類いの人間ではない。

ただのオタクである。ただ、独り言のデカい厄介なオタクである。

 

もちろん、そのデカい独り言は秒速340mの速度で目の前にいる先生の鼓膜をクリアに震わせる。

 

「おい今なんて言った」

当然の結果すぎて呆れてしまう。

教室の空気が凍りついたのを覚えている。何事かと皆が一斉に先生を見た。

 

「やる気がないなら帰っていいぞ」

 

大学生にもなってこんな手垢の付きまくった台詞を聞く機会が来ようとは。

小学生の時、少年野球で監督にこう言われて本当に帰ったH君の懐かしい顔がふと浮かんだ。

 

「面倒臭いんだろ?帰れよ」

静かなる怒声。

 

対して、

「やる気はあります!!!!」

A君が怒鳴った。いやなんでお前がキレるんだ。

「いや面倒くさいって言ったじゃねえか!!」

先生も怒鳴る!そして私は吹き出す。

いくらなんでも正論すぎるだろ。

 

何だこれは?と思った。惨状には違いないのだが、シュールすぎて完全にツボに入ってしまっていた。あまりに正しいことに言い負かされているやり取りを見ると人は笑ってしまうらしい。

 

自ら「やる気ない」と告白した臨界点突破オタクとそれを「やる気ないなら帰れ」と糾弾する正論先生。これほど勝敗が付いてしまっている戦いなどあっていいのだろうか。

もはや戦いですらない気がする。

 

その問答は永久パターンのようにしばらく続いた。

A君も途中から「やらせてください!お願いします!!」などとプロジェクトを任せて欲しい新入社員のような雰囲気を醸し出していたが、スタートは自分の「めんどくせえ」だからひとつもフレッシュではなかった。

先生も普段の図面の評価はブレても、この問答では一切の揺らぎを許さなかった。

 

そして衝撃の結末。

最終的にこの輪廻は問答では抜け出せないと先生は悟ったのか、A君の図面をその手から取り上げ、ビリビリに破いてしまった。このパワープレイには教室も騒然だった。

そして、

「ああああああああああああああ!!!」

A君の断末魔だ。

空想上の生き物だと思っていた膝から崩れ落ちて泣き叫ぶ人間をこの目で見てしまった。

しかし全く同情できない。君は「めんどくせえなあ」と先生の目の前で言ったのだ。

そこから始まる顛末の収拾は、落とし前は自らの手で付けなくてはならない。

結局、そのまま製図の単位を落としたA君は留年した。

全く身から出た錆とはこのことである。

この話は今でも同期の間で語り草であることは言うまでもない。

反面教師とするならば、口は災いの元といったところか。なんだか簡素だ。

 

こうして苦労や思い出の詰まった製図の授業だが、私は無事にその単位を取得できた。

無理矢理にまとめるが、人生のどんな試練も腰を据えて臨めば必ず乗り越えられるのだ。皆さんもそのことを忘れないでほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、普通に他の単位が足りずに俺は留年した。

関西の方言と地元の方言の話

関東の人間が聞いて面食らう、日常でポロッと出る関西の方言不動の第一位は

シンプルに「なおす」だと思っている。

会社でもよく「これなおしといて」と言われる。

もう意味はわかるので、ただ淡々とそれを元あった場所に戻すだけだ。

しかし、内心では「なんだかおかしいな」と少し楽しくなっている自分が未だにいるのである。

 

突然、ウン十万はする精密機器などを「これなおしといて」とそよ風の如き軽さで言われることがある。

瞬間的に、自分がその精密機器の専門知識を擁した有能なリペアマンか何かだった気がしてくる。

ウン十万というその価値、機器構造の複雑さに対する「これなおしといて」という語気の軽さというアンバランスさが、私の”この道”における信頼度を演出してくれる。

「こいつに頼んでおけば安泰。こいつにとっては余裕の仕事」

 

そして、それを聞いた私はフフッと不敵に笑うわけだ。

「まかせてくださいよ」

自信に裏打ちされた力強くも短い応答の後、洗練された手際の良さで精密機器を箱に入れて、丁寧に元あった棚に戻す。

「ま、こんなもんかな」

額に汗ひとつ掻いていない。よどみのない作業だった。

 

と、勝手にこんな気分に浸りながら仕事をしている。とても楽しい。

どんな精密機器でもどんどん「なおす」からいつでも言ってくれという感じだ。

まあ、毎日毎日ことあるごとに「これなおしといて」と言われている人材がいたら、間違いなくそいつは出世しなさそうであるが。

 

関西の言葉といえばテレコにも思うところがある。

あべこべだとかという意味だが、こいつの一番強いところは言葉の響き自体のスマートさだ。

 「ここテレコになってるね」

この溢れ出る小慣れ感。この言葉もまた謎の職人っぽさがある。

明らかにアマではなくプロのソレだ。

テレコ・コーディネーターといった具合だ。

 

「これは間違なく…”テレコ”…やろなあ」

「この部分、便宜上だけでも”テレコ”としておくべきでしょうね」

「いっちょ”テレコ”いっとく?」

 

きっと関西人から見たらこいつアホちゃうかといった感想しかないだろうが、聞き慣れない耳障りはなぜか異様にかっこよく聞こえてしまう。

 

また、ここで私の地元である茨城県でいう「テレコ」

つまり茨城弁の「あべこべ」を見てみよう。

 

「おめぇシャツのボタンいっちくだっちくになってっぺよ」

 

いっちくだっちくである。

冷静に見て「おいお前いきなりどうした?」という感想しかない。

いっちくだっちくって。突然会話の中で音がハネすぎだろう。

雑なHIPHOP的押しつけが凄い。韻を踏むのをやめろ。

「いっちく」の時点で既に小ジャンプしているのに「だっちく」の追い討ちでさらに前ステップでラインを上げて来ているのが図々しい。

 

「テレコ」があべこべ界のミルコ・クロコップならば

「いっちくだっちく」はあべこべ界のボブ・サップだろう。

 

「テレコ」の圧倒的スマートさに対して、野獣ともいえる「いっちくだっちく」の無法さ。

やっていいことと悪いことの区別がついていなさそうである。

「テレコ」はとにかくリスクを抑えた立ち回りで、最低限のムーブのみを用いる暗殺術を得意とするが、

「いっちくだっちく」はいっちくのファーストブリットで敵のみぞおちを強襲し、だっちくのセカンドブリットで相手の顔面をボコボコにするバーサーカースタイルだ。

 

性格のまるで違う二人は対称的だが、いいコンビだと私は思う。

この二人の関係をしてまさに「テレコ」になっていると言えなくもない。